岩手村 (愛知県)
いわてむら 岩手村 | |
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岩手村の塚 | |
廃止日 | 1872年 |
廃止理由 |
合併 |
現在の自治体 | 扶桑町 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 愛知県 |
郡 | 丹羽郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
27[1]人 (1800年代初め[1]) |
岩手村役場 | |
所在地 | 愛知県 |
ウィキプロジェクト |
岩手村(いわてむら)は、愛知県丹羽郡にかつてあった村(町村制施行前の村)。
歴史
[編集]この岩手村に人が住み着いたのはいつの頃か分からないが、古くは慶長年間(1600年頃)に岩手村の名がある。1727年(享保12年)の『木曽川通絵図』には、一つの島として書かれ、独立した村となっている。
『寛文村々覚書』では「畑七反五畝一一歩」。『尾張徇行記』には「戸数六、人口二七、馬なし」と書かれている小さな村であった。
1607年(慶長12年)、御囲堤の築堤の折、堤の外へ取り残され洪水の心配が一段と大きくなり、村人は水害から逃れようと堤内に移住し、明治初年ごろには無住の村となった。村にあった神明社は小淵の神明社に合祀された。
沿革
[編集]- 1872年(明治4年) - 北山名村と合併し、山那村となる。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 山那村と南山名村が合併。山名村発足。
- 1906年(明治39年)10月1日 - 豊国村、高雄村の一部、柏森村の一部と合併し、扶桑村発足。同日山名村は廃止。
地理
[編集]岩手村は扶桑の北端にあった村である。現在は住人はなく、石塁(猿尾)が200余m残っている。村の中心とみられるところに塚があり、イロハモミジの大木が茂って、弁財天、地蔵を祭った小祠がある。木曽川増水の際は村民の緊急避難場所になったと言われている。この塚は扶桑町文化財(史跡)に指定されている。1982年(昭和57年)1月指定。現在塚に続く平地は畑で、一部は木曽川扶桑緑地公園となっている。
『天保村絵図』をみると、村の中央に御幸通りがあり、堤防道もある。面積は小さいが神社(神明宮)や寺(薬師寺)もあった。
岩手村には旧般若用水元杁があり、杁跡付近には堀場の地名が残っていた。扶桑町文化財(史跡)。尾張最古の元杁である。現在の場所は1634年(寛永11年)以後のもので、それ以前は約70m下流にあった。また、塚の東の畑には1979年(昭和54年)頃まで井戸が一基残っていた。
地名の由来
[編集]『尾張地名考』に、岩手の「手」は当て字で、元は「出」であろう。対岸の伊木に岩が猿尾のように川へ突き出ている所があり、岩出と呼ぶ。村の様子と似ているのでここも岩出のものであろう(大意)と書かれている。
文化財
[編集]木曽川扶桑緑地公園の遊具広場のすぐ北、江南市の境界近くにある[4]。イロハモミジも町文化財(天然記念物)に指定されていたが、台風で枝が折れて樹勢がなくなり、2019年9月に指定を解除された[4]。説明板では大きさは「県内でも屈指」とされ、他の町資料によると高さ26m、幹の周囲2.6mもあったとされる。
参考文献
[編集]- 『扶桑町史』、扶桑町、1998年、第四章 近世、284 - 286頁。