木内石亭
木内 石亭(きうち/きのうち せきてい、享保9年12月1日(1725年1月14日) - 文化5年3月11日(1808年4月6日))は、江戸時代の奇石収集家、本草学者。幼名は幾六。諱は重暁。
人物
[編集]近江国志賀郡下坂本村(現滋賀県大津市坂本)に生まれる。捨井家に生まれるが、母の生家である木内家の養子となる [† 1][1]。養子先の木内家は栗太郡山田村(現・草津市)にあり、膳所藩郷代官を務める家柄だった。ところが20歳の時、罪に連座して禁固3カ年に処された。その3年間は歳月が過ぎるのを忘れて石に集中していた。そして、石に集中する自分を自覚した。出身地の近江南部は名石や奇石の産出で知られており、「弄石」(ろうせき)趣味が流行していた。そのころから「奇石」への道を本格的に始めた[1]。 本草学を拡大した「物産学」が登場し、江戸・京都・大坂などで物産会が開かれるようになり、木内も参加した[† 2][1]。 宝暦元年(1751年)、大坂に赴き津島如蘭(桂庵)から本草学を学んだ。津島塾では木村蒹葭堂と同門。宝暦6年(1756年)には江戸に移り、田村元雄(藍水)に入門。同門下の一人平賀源内らと交流した。
11歳の頃から珍石奇石に興味を抱き、諸国を精力的に旅して、2000種を超える石を収集した。収集した奇石のなかには鉱物や石製品、石器や化石も含まれており、分類や石鏃の人工説も唱えており、考古学の先駆者とも評される。
また「弄石社」を結成し、諸国に散らばっている愛好家達の指導的役割を果たした。享和3年(1803年)の弄石社中名簿[2]は全国の弄石家、通計156人の姓名を在住地、号、専門分野とともに掲げる。
著作に『雲根志』[† 3][3] や『奇石産誌』等があり、シーボルトが著書『日本』を記すにあたっては、石器や曲玉について石亭の研究成果を利用している。中山道守山宿の本像寺(滋賀県守山市今宿一丁目)に墓がある。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 中江克己『江戸のスーパー科学者列伝』宝島社
- 松田清『京の学塾 山本読書室の世界』京都新聞出版センター、2019年 。
- 斎藤 忠『木内石亭』人物叢書<新装版>、吉川弘文館、1989年