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柴田不二男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柴田不二男
騎手時代の柴田(1956年頃)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 青森県
生年月日 (1921-12-26) 1921年12月26日
死没 (2000-09-22) 2000年9月22日(78歳没)
身長 152cm[1]
体重 51kg[1]
騎手情報
所属団体 国営競馬
日本中央競馬会
所属厩舎 新堂捨蔵京都(1940年 - 1948年)
松田由太郎・京都(1948年 - 1950年)
武田文吾・京都(1950年 - 1953年)
武平三・京都(1953年 - 1955年)
増本勇・京都(1955年 - 1958年)
初免許年 1947年
騎手引退日 1958年
重賞勝利 2勝
G1級勝利 1勝
通算勝利 2077戦318勝
調教師情報
初免許年 1959年
調教師引退日 1997年2月28日(定年)
重賞勝利 26勝(中央22勝/地方4勝)
通算勝利 8257戦619勝(中央のみ)
経歴
所属 中京競馬場(1959年 - 1971年)
栗東T.C.(1971年 - 1997年)
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柴田 不二男(しばた ふじお、1921年12月26日 - 2000年9月22日)は、日本競馬騎手調教師

1947年より国営競馬(後の日本中央競馬会)で騎手として活動、1956年にミスリラ桜花賞に優勝した。1959年に騎手を引退して調教師となり、1990年代半ばにダート競走で活躍したライブリマウントなどを管理した。また、1965年の東京優駿(日本ダービー)を前にした突然の金銭トレードで知られるダイコーターも日本ダービー出走時まで管理していた。1997年に定年引退。

経歴

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1921年、青森県に軍馬の生産を兼ねる農家に生まれる[2]。近隣の出身であった騎手・佐々木安の姿に憧れて騎手を志し[2]、1936年から1940年までは上北町東北牧場に乗り役として務めていた[3]。その後、同郷の新堂捨蔵厩舎(京都競馬場)に騎手見習いとして入門[4]。当時新堂厩舎には数多くの人材がいたことから、同場の武田文吾厩舎に預けられた[4]。このため、騎手・調教師の系統譜では柴田は武田門下となっており、その一番弟子として記録されている[5]

1941年末の太平洋戦争勃発に伴い徴兵され、朝鮮台湾満州と移動を続けた[4]。軍では馬の管理を任され、輸送の指揮を執ることもあったという[4]

終戦後、1947年に帰国し、新堂厩舎に所属[4]。同年3月に騎手免許を取得した[1]。以後京都の厩舎を転々としながら成績を挙げていき、1956年にはミスリラクラシック競走の桜花賞に優勝。年間では50勝を挙げた[3]。しかし1958年、中京競馬場の振興のため調教師として中京で厩舎開業することを要請される[6]。柴田は騎手を続けるつもりでおり、当時の所属先の調教師であった増本勇もこれに反対していたが、武田文吾から「これもひとつのチャンスだ、開拓者のつもりで中京で頑張れ」と説得され、この意見を容れて中京に移り[6]、騎手を引退した。騎手通算成績は2077戦318勝であった[3]

1959年3月、調教師免許を取得し厩舎を開業。同年10月にはワカノキングで京阪杯を制し、調教師として重賞初勝利を挙げた。1964年にはダイコーターが入厩。3歳時から逸材の声が高く[7]、翌1965年にはきさらぎ賞スプリングステークスと重賞を連勝、4歳クラシック初戦の皐月賞で2着、続くNHK杯(ダービートライアル)勝利を経て日本ダービーを迎えるが、その競走前、ダイコーターは柴田の頭越しで元の馬主の橋元幸吉から上田清次郎に金銭譲渡された。厩舎に橋元からの連絡があったとき柴田は不在で、橋元は代わりに電話を取った妻に「おれは去年ダービーを取ってしまったから、今年は取れないと思う。同じ馬主が二年続けてダービーを勝つことはないんだ。だから、ダイコーターは売ることにしたから、柴田にそう伝えてくれ」と言ってきたという[8][注 1]。馬主が替われば上田の懇意の厩舎へ移る可能性が高いことから、柴田は「ダービーが終わるまではやらせて欲しい」と上田に頼み、これを認められてダイコーターは柴田厩舎の所属馬としてダービーに臨んだ[8]。「ダービーを金で買えるか」という議論も起こるなか、当日ダイコーターは1番人気の支持を受けたが、逃げたキーストンを捉えきれず、1馬身3/4差の2着と敗れた。競走後、ダイコーターは上田武司厩舎に移り、秋にクラシック最終戦の菊花賞に優勝している。

以後は長らくアラブ馬の活躍が多かったが、調教師生活晩年の1993年から厩舎に所属したライブリマウントがダート競走で活躍。1994年末のウインターステークスから地方競馬との統一重賞帝王賞などを含む重賞6連勝を挙げ、1995年度のJRA最優秀ダートホースに選出された。同馬は同年10月のマイルチャンピオンシップ南部杯が最後の勝利となったが、1996年3月には、同年創設されたアラブ首長国連邦ドバイで行われる世界最高賞金競走・ドバイワールドカップに日本調教馬として初出走し、11頭立て6着の成績を残した。

1997年2月28日、定年により調教師を引退。調教しての通算成績は8257戦619勝(数字は中央競馬のみ)、重賞は26勝(地方競馬の統一重賞4勝を含む)であった。

2000年9月、病気により78歳で死去した[9]

エピソード

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  • 1993年2月にレース中の事故により亡くなった岡潤一郎が騎乗していたオギジーニアスは柴田が管理していた馬だった。

成績

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騎手成績

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通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 250 312 267 980 1,809 .138 .310
障害 68 49 48 103 268 .253 .436
318 361 315 1,083 2,077 .153 .327

主な騎乗馬

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※括弧内は柴田騎乗時の優勝重賞競走。太字八大競走

調教師成績

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  • 8257戦619勝(数字は中央競馬のみ)

主な管理馬

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※括弧内は柴田管理下の優勝重賞競走。

主な厩舎所属者

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※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

親族

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出典

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注釈

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  1. ^ 橋元幸吉は前年に武田文吾厩舎のシンザンで日本ダービーを制していた。

出典

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  1. ^ a b c 『騎手銘鑑』(『優駿』1956年6月号附録)pp.29-30
  2. ^ a b 『調教師の本VI』p.102
  3. ^ a b c 井上(1964)p.225
  4. ^ a b c d e 『調教師の本VI』p.103
  5. ^ 『日本の騎手』p.198
  6. ^ a b 『調教師の本VI』p.104
  7. ^ 『調教師の本VI』p.105
  8. ^ a b 『調教師の本VI』pp.106-107
  9. ^ 優駿』2000年11月号(日本中央競馬会)p.75

参考文献

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pFad - Phonifier reborn

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