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栗林卓司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

栗林 卓司(くりばやし たくじ、1931年昭和6年)3月8日[1] - 1997年平成9年)9月21日[1])は、昭和期の労働運動家、政治家参議院議員(3期、民社党)。

来歴

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本籍宮城県仙台市[2]千葉県、現在の市川市で元陸軍主計大佐の長男として生まれる[2]東京府立第六中学校から疎開のため栃木県立宇都宮中学校に転校[2]学徒勤労動員により戦闘機の生産に従事した[2]。戦後に仙台に移り、宮城県仙台第二中学校を経て[2]1954年(昭和29年)東北大学法学部を卒業した[1][2][3]

1954年日産自動車に入り[1][3]吉原工場に配属された[2]。日産自動車労働組合(日産労組)に入り吉原支部青年部の結成に尽力[2]。1964年(昭和39年)日産労組情宣部長、1965年(昭和40年)同副組合長になる[1]。翌年日本自動車産業労働組合連合会(自動車労連)情宣局長になり[1]1968年(昭和43年)同副会長になる[1][2]。また、自動車産業労働組合協議会(自動車労協)幹事、民社党中小企業対策副委員長、同公害対策副委員長なども務めた[2]

1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙全国区に民社党公認で立候補して初当選[1][4]。以後、1977年(昭和52年)7月の第11回通常選挙(全国区)、1983年(昭和58年)6月の第13回通常選挙比例区)でも再選され[5]、参議院議員に連続3期在任した[1][3]。この間、民社党中央執行委員、党機関紙局長、全日本自動車産業労働組合総連合顧問、全日本資源産業労働組合連合会顧問などを務めた[3]1989年(平成元年)に引退[1]。1997年(平成9年)9月21日、脳内出血のため神奈川県横浜市保土ケ谷区の病院で死去、66歳[6]。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈、正四位に叙される[7]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『新訂 現代政治家人名事典』193頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 「私たちの参院候補 組織内四候補の横顔」48-50頁。
  3. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』300頁。
  4. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』551頁。
  5. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』553、557頁。
  6. ^ “訃報”. 産経新聞. (1997年9月23日). オリジナルの2000年10月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20001021082115/http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9709/paper/0923/dead.html 2022年12月28日閲覧。 
  7. ^ 『官報』第2253号6-7頁 平成9年10月30日号

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 現代政治家人名事典 : 中央・地方の政治家4000人』日外アソシエーツ、2005年。
  • 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
  • 「私たちの参院候補 組織内四候補の横顔 / 栗林卓司 ; 柴田利右エ門 ; 中村利次 ; 藤井恒男」『同盟』149、全日本労働総同盟、1970年12月。
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