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江口光清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
江口 光清
時代 安土桃山時代
生誕 不明
死没 慶長5年9月13日1600年10月19日
別名 道連、五兵衛
主君 最上義光
氏族 江口氏
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江口 光清(えぐち あききよ)は、安土桃山時代出羽国山形県)の武将最上氏家臣。出自は不詳であるが、文禄年間から最上義光の側近として京都付近での活動が見られる。名は道連(みちつら)とも伝わる[1]

畑谷城防衛戦

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1600年(慶長5年)に勃発した「奥羽の関ヶ原の戦い」ともいわれる慶長出羽合戦で、光清は畑谷城に配置されていた。

西軍・上杉景勝の将・直江兼続が東軍の最上義光を攻めた際、畑谷城も攻撃を受けた。義光は、犠牲を最低限に抑え山形城に兵力を集中させるため、使者を出し畑谷城を明け逃げ(退却)するように命令した。しかし光清は「敵を目前にして城を捨てたとなっては、武士たるもの末代の名折」と言い聞き入れなかった。

畑谷城を包囲した直江兼続は降伏勧告を行うも、光清はこれも無視し、兵士300人と共に上杉軍相手に激しく抗戦し、城兵はすべて討たれた。おそらくは周囲の住民も含めてと思われるが、直江兼続は「撫で斬りを命じて首500余りを挙げた」と書状に残している。

光清は徹底抗戦を決意するに至った時点で、一族の子女を密かに城外に逃がした。城から出た子女らは、畑谷から小滝街道沿いに逃げ延び、各地に匿われた。現在の上山市狸森地区・小白府地区・南陽市小滝地区にかけて、その子孫が現存している。

文化人として

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最上義光は連歌に優れた才を持っており、その家臣団にも文学を奨励したという。光清は義光の連歌会に何度も連座しており、名護屋滞陣中の義光に発句を請う使者を勤めたこともある。以下に二句ほど紹介する。

  • 一群の竹の林の暮れわたり 光清
  • 花の色も暮るるを惜しむまりの庭 里村紹巴
    • 霞めるままにすだれをぞ巻く 光清

これは、文禄2年(1593年6月13日の百韻連歌の一部である。主君の義光と供に連歌の席に連座した家臣は、他にもいたが、数十回にわたる者は他に堀喜吽のみである。

脚注

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  1. ^ 山辺町文化財保護審議会 2017 p.16

参考文献

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  • 『北天の巨星 最上義光』
  • 『陸奥・出羽 斯波・最上一族』
  • 『最上義光合戦記』
  • 『奥羽斯波氏諸列記』
  • 『歴史読本』2007年8月号
  • 最上義光歴史館 歴史館だより
  • 戦国時代人物事典 学習研究社(2009年) ISBN 4054042902
  • 山辺町文化財保護審議会 2017「畑谷城址」『山辺町の文化財』p.16 山辺町教育委員会
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