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沖縄 (海防艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沖縄
基本情報
建造所 日本鋼管鶴見造船所
運用者  大日本帝国海軍
復員庁
艦種 海防艦
行動不能艦艇(復員庁)
級名 占守型海防艦(1944年3月)
鵜来型海防艦(1944年6月)
建造費 5,112,000円(予算成立時の価格)[注釈 1]
艦歴
計画 マル急計画
起工 1943年12月10日[1][2]
進水 1944年6月19日[1][2]
竣工 1944年8月16日
最期 1945年7月30日被爆沈没
除籍 1945年9月15日
要目(竣工時)
基準排水量 940トン
全長 78.77m
最大幅 9.10m
吃水 3.06m
主機 艦本式22号10型ディーゼル2基
推進 2軸
出力 4,200hp
速力 19.5ノット
燃料 重油 120トン
航続距離 16ノットで5,000カイリ
乗員 定員149名[注釈 2]
兵装 45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基
25mm機銃 3連装2基
九四式爆雷投射機2基
三式爆雷投射機16基
爆雷120個
搭載艇 短艇3隻
レーダー 22号電探1基
ソナー 九三式水中聴音機1基
九三式水中探信儀1基
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沖縄[注釈 3]おきなわ)は、日本海軍海防艦[3]鵜来型海防艦の2番艦[4]。1944年(昭和19年)8月中旬に竣工した。同年10月下旬から11月上旬にかけて多号作戦に従事、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下でレイテ島オルモック湾に突入した[5]。1945年(昭和20年)7月30日に舞鶴港で連合国の空母機動部隊から飛来した艦上機による空襲を受け、沈没した[注釈 4]。艦名は、沖縄県沖縄本島にちなむ。

建造までの経緯

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マル急計画の海防艦甲、第310号艦型の26番艦[注釈 5]、仮称艦名第335号艦として計画。1942年(昭和17年)2月14日、海防艦乙型(基本計画番号E20)の基本計画の決定により第322号艦型に計画変更[注釈 6]。1943年(昭和18年)7月5日、海防艦改乙型(基本計画番号E20b)の設計が完了したため、第310号艦型と第320号艦型の未起工艦のうち本艦を含む8隻は、基本計画番号E20bに従って建造されることになった。また、未起工艦8隻のうち日立造船に建造が割り当てられた3隻は、用兵側から要望のあった掃海具を装備した通称「日振型」として建造されることになる。

艦歴

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1943年(昭和18年)12月10日[1][2]、日本鋼管株式会社鶴見造船所で起工。1944年(昭和19年)3月15日、沖縄と命名されて占守型海防艦の19番艦に定められ[注釈 7]、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。5月20日、艤装員事務所が日本鋼管鶴見造船所内で事務を開始[8]。6月5日、艦艇類別等級別表の改正により鵜来型海防艦の2番艦に定められる。19日[1][2]、進水。8月16日竣工し、艤装員事務所を撤去[9]。本籍を舞鶴鎮守府、役務を舞鶴鎮守府警備海防艦にそれぞれ定められる。同日付で呉防備戦隊に編入され、軍隊区分豊後防備部隊第二部隊の呂号第五百潜水艦を相手に基礎術力練成教育にあたる。

10月3日、海上護衛総司令部隷下の第一海上護衛隊に編入される。海防艦占守らとともにモマ04船団を護衛し、門司を出発する[10]上海市に寄港し、貨客船浅間丸[11]、海防艦2隻(第11号第13号)が船団部隊に加わった[注釈 8]10月25日フィリピンルソン島リンガエン湾着。マニラに移動し[13]南西方面部隊の指揮下に入り[注釈 9]レイテ島攻防戦にともなう増援輸送「多号作戦」に従事することになった[5]

10月31日朝、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(旗艦)が指揮する第二次多号作戦部隊は、マニラを出撃する[14][注釈 10]。11月1日夕刻、レイテ島西岸のオルモック湾に到着した[17]。対空戦闘をおこないつつ、被害を能登丸沈没だけに抑え[18]、2日夕刻にオルモックを出発した[19]。4日、マニラに帰投した[19]。11月5日、マニラ湾を米軍機動部隊の艦上機が襲い、重巡洋艦那智第五艦隊旗艦)が沈没[20]、駆逐艦沖波などが損傷する[21]。海防艦部隊に被害はなかった。

11月8日午前中、木村少将が指揮する第四次作戦部隊はマニラを出撃する[22][注釈 11]。9日夕刻、第四次作戦部隊はオルモック湾に到着した[23]大発動艇の準備が出来ておらず、吃水の浅い海防艦が人員輸送に活躍した[25][26]。10日の対空戦闘で輸送船3隻が沈没するなど各艦とも損害を出し[27]、護衛部隊では第11号海防艦が沈没した[注釈 12]。帰路、オルモック湾にむかう第三次多号作戦部隊とすれ違い、護衛艦艇の一部入れ替えをおこなう[29][注釈 13]。11月11日夜、第四次作戦部隊はマニラに帰投した[28]。 11月13日、米軍機動部隊の艦上機がマニラを襲う[32]。多号作戦部隊からは軽巡木曾や駆逐艦4隻(初春秋霜、沖波、曙)が沈没したり着底するなどの被害が出た[33]。11月14日未明、海防艦3隻(占守、沖縄、第13号)はマニラを離れ[34]ボルネオ島北西部のラブアンに向かった[35][注釈 14]

11月17日、ボルネオ島のブルネイに寄港する[38]。18日、パラワン島沖で被爆損傷[39]。船団部隊から離脱する[注釈 15]。23日、南西方面艦隊指揮下を解かれ、第一海上護衛隊に復帰。23日から第百一海軍工作部で修理。

12月10日、第一海上護衛隊は第一護衛艦隊に改編。11日、サイゴンに回航。15日、潜水艦の雷撃で大破した重巡洋艦妙高と曳航役の重巡羽黒[注釈 16]、海防艦千振ほか2隻および第102号哨戒艇と共に護衛してシンガポールへ向かう[42]。24日、シンガポール着[43]。25日、第三十一海防隊に編入。26日、ヒ84船団を護衛しシンガポール発[注釈 17]。途中キノン湾ツーラン、横楠島、舟山島を経由し、1945年1月13日門司着[44]

1945年1月14日から2月3日まで呉海軍工廠で補助機械の換装工事。2月4日、ヒ88A船団と合同のため鎮海湾へ向け出発。7日、六連島沖に帰着。10日、モタ35船団を護衛し門司発。19日に基隆到着、復航でタモ45船団を護衛し3月2日に六連島沖に帰着。以後、日本海-北支沿岸の護衛に従事。

4月14日、舟山列島付近で海防艦2隻(第8号第32号)と共に行なった対潜戦闘により、アメリカ潜水艦スヌーク (USS Snook, SS-279) を撃沈したかもしれない[注釈 18]

6月19日、能登半島松波に面する七尾湾で輸送船坤山丸(興国汽船、5,488トン)が潜水艦の雷撃で沈没した。現場海域にむかった第三十一海防隊(沖縄、第207号海防艦第63号海防艦)は、第十一海防隊の第75号海防艦第五十一戦隊第158号海防艦と共同で敵潜水艦1隻を撃沈し、これら5隻は舞鶴鎮守府司令長官から感状を授与された[46]。この潜水艦はバーニー作戦のため日本海に侵入したアメリカ潜水艦ボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) だったことが[47]、戦後行われたアメリカ海軍による調査で明らかとなった[48]

7月30日、舞鶴で駆逐艦「初霜」や潜水母艦「長鯨」などと共に空襲を受ける。連合国側の記録では、イギリス太平洋艦隊所属のイラストリアス級航空母艦から飛来した攻撃隊が「沖縄」を撃沈したとする[注釈 19]。また舞鶴空襲に参加したアメリカ海軍の軽空母「インディペンデンス」所属機も「沖縄」撃沈を主張している。 この空襲で、乗員1名が戦死し、2名が負傷した。8月25日、舞鶴鎮守府第一予備海防艦に定められる。9月15日、帝国海防艦籍から除かれた。

1947年(昭和22年)2月1日、舞鶴にて全没状態にあり、舞鶴地方復員局所管の行動不能艦艇(特)に定められる[51]。その後浮揚され、1948年(昭和23年)2月から9月にかけて飯野産業舞鶴造船所で解体された。

海防艦長

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艤装員長
  1. 有馬國夫 少佐:1944年5月10日 - 1944年6月7日、以後7月31日まで艤装員長の発令無し。
  2. 坂本修 大尉:1944年7月31日 - 1944年8月16日
海防艦長/艦長
  1. 坂本修 大尉/少佐:1944年8月16日 - 1945年9月15日[注釈 20]

出典

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注釈
  1. ^ これは第310号艦型の価格であり、基本計画番号E20bとしての価格ではない。
  2. ^ この数字は特修兵を含まない。
  3. ^ 本来の艦名表記は沖繩である。
  4. ^ 昭和22年2月1日付 二復総第49号での判定は「全没」であり、世界の艦船『日本海軍護衛艦艇史』p. 24と福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』資料篇 p. 艦歴表22のいずれも「沈没」としている。着底、あるいは擱座ではない。
  5. ^ マル急計画の当初計画での番数。
  6. ^ のち、基本計画番号E20は建造予定を繰り上げて第320号艦を第1艦とした。
  7. ^ この日時点で択捉型海防艦のうち沈没して除籍となった艦が2隻あるため(1943年9月2日に沈没した六連[6]、1943年11月23日に沈没した若宮[7])、それら除籍艦を含めると通算で21番艦。
  8. ^ 第11号海防艦は台湾基隆港より合流したとも[12]
  9. ^ 南西方面部隊指揮官は、南西方面艦隊司令長官(兼第三南遣艦隊司令長官)で、10月29日の多号作戦初同時は三川軍一中将であった[14]。11月1日付で、大川内傳七中将に交代している[15]
  10. ^ 第二次多号作戦部隊:駆逐艦6隻(霞、沖波初春初霜)、第七護衛隊の松山光治少将が指揮する海防艦(沖縄、占守、11号、13号)、玉兵団などを乗せた輸送船4隻(能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸)、他に輸送艦4隻(6号、9号、10号、131号)[16]
  11. ^ 第四次多号作戦部隊:駆逐艦(霞、若月長波秋霜朝霜)、海防艦(沖縄、占守、11号、13号)、第26師団を乗せた輸送船(香椎丸、金華丸、高津丸)[23]。別働の輸送艦3隻(6号、9号、10号)[24]
  12. ^ 生存者や司令部は第13号海防艦に移動した[28]
  13. ^ 第四次多号作戦部隊の駆逐艦3隻(若月、長波、朝霜)が第三次多号作戦部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官、旗艦島風)に合流[30]、第三次部隊の駆逐艦2隻(初春、竹)が分離してマニラに引き返す[31]
  14. ^ 南西方面艦隊の命令により、第五艦隊司令部と健在の第一水雷戦隊(霞、潮、初霜、朝霜、竹[36])も同様にマニラを脱出、ブルネイに退避した[37]
  15. ^ 沖縄が分離した後の11月21日、占守と第13号海防艦が護衛していた暁山丸(5,698トン)がアメリカ潜水艦フラウンダー (USS Flounder, SS-251) の雷撃を受けて大破(翌22日、漂流中のところを潜水艦ガヴィナに撃沈された。)、つづいてアメリカ潜水艦ハッド (USS Haddo, SS-255) の雷撃で占守も損傷した[40]
  16. ^ 妙高はレイテ沖海戦で空襲により損傷、駆逐艦に護衛されて日本へ向けて航行中の12月13日夜、アメリカ潜水艦バーゴール (USS Bergall, SS-320) の雷撃で大破した[41]
  17. ^ 『海防艦戦記』、p. 312。船団名は『第一護衛艦隊戦時日誌(昭和20年1月1日-31日)』、麾下艦船部隊ノ行動(其ノ二)から引用。
  18. ^ スヌークは4月9日に対潜哨戒任務の零式水上偵察機東海によって撃沈された可能性もある[45]
  19. ^ 第37任務部隊の記録では、「沖縄」を攻撃したのは正規空母ヴィクトリアスフォーミダブルインプラカブルインディファティガブル)の所属機[49][50]
  20. ^ 充員召集を解除されたことによる自動解職。
脚注
  1. ^ a b c d 『昭和造船史 第1巻』、p. 828。
  2. ^ a b c d 『写真 日本海軍全艦艇史』資料篇、p. 22。
  3. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 236a沖縄(おきなわ)
  4. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 86-88急速建造のため船体構造を簡略化した鵜来型
  5. ^ a b 岸美、レイテ輸送 2020, pp. 26–27多号作戦(昭和19年マニラよりレイテ島に対する輸送作戦)の経過概要
  6. ^ 海防艦激闘記 2017, pp. 226–227六連(むつれ)
  7. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 228若宮(わかみや)
  8. ^ 昭和19年5月29日付 海軍公報(部内限)第4700号。
  9. ^ 昭和19年8月24日付 海軍公報(部内限)第4779号。
  10. ^ 占守電探室異状なし 2012, p. 52.
  11. ^ 第13号海防艦戦記 2014, p. 12.
  12. ^ 占守電探室異状なし 2012, p. 55.
  13. ^ 占守電探室異状なし 2012, p. 58.
  14. ^ a b 戦場の将器 1997, p. 245.
  15. ^ 戦場の将器 1997, p. 246.
  16. ^ 岸美、レイテ輸送 2020, pp. 32–36最大規模の第二次輸送作戦
  17. ^ 第13号海防艦戦記 2014, p. 15.
  18. ^ 岸美、レイテ輸送 2020, p. 35.
  19. ^ a b 第13号海防艦戦記 2014, p. 16.
  20. ^ 駆逐艦勤務 2007, pp. 279–280運命の十一月五日
  21. ^ 岸美、レイテ輸送 2020, pp. 37–42「大発準備なく無念」第四次輸送作戦
  22. ^ 戦場の将器 1997, p. 247.
  23. ^ a b 岸美、レイテ輸送 2020, p. 39.
  24. ^ 岸美、レイテ輸送 2020, p. 43.
  25. ^ 第13号海防艦戦記 2014, p. 18.
  26. ^ 占守電探室異状なし 2012, p. 60.
  27. ^ 岸美、レイテ輸送 2020, p. 40.
  28. ^ a b 第13号海防艦戦記 2014, p. 19.
  29. ^ 岸美、レイテ輸送 2020, p. 44.
  30. ^ 戦場の将器 1997, p. 249.
  31. ^ 南海の死闘 1994, pp. 107–109「竹」多号作戦初出撃
  32. ^ 第13号海防艦戦記 2014, p. 20.
  33. ^ 岸美、レイテ輸送 2020, pp. 50–54マニラ湾の地獄
  34. ^ 第13号海防艦戦記 2014, p. 21.
  35. ^ 占守電探室異状なし 2012, p. 61.
  36. ^ 南海の死闘 1994, p. 112.
  37. ^ 岸美、レイテ輸送 2020, p. 53.
  38. ^ 第13号海防艦戦記 2014, p. 22.
  39. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 236b.
  40. ^ 占守電探室異状なし 2012, pp. 64–66.
  41. ^ 潜水艦攻撃 2016, pp. 261–263○米潜水艦バーガル(1944年12月13日)
  42. ^ 潜水艦攻撃 2016, p. 263.
  43. ^ 『海防艦戦記』、p. 311。
  44. ^ 『第一護衛艦隊戦時日誌(昭和20年1月1日-31日)』、麾下艦船部隊ノ行動(其ノ二)。
  45. ^ 潜水艦攻撃 2016, pp. 170–172(53)スヌーク(米)/1945年4月12日~20日?〈日本軍機または海防艦による〉
  46. ^ 潜水艦攻撃 2016, pp. 175–178(55)ボーンフィッシュ(米)/1945年6月19日
  47. ^ 潜水艦攻撃 2016, p. 176.
  48. ^ シーパワー 1985年12月号、pp. 75-76。
  49. ^ Task Force 37 Task Force 37”. pacific.valka.cz. 2023年9月14日閲覧。
  50. ^ 1834 Squadron”. royalnavyresearcharchive.org.uk. 2023年9月14日閲覧。
  51. ^ 昭和22年2月1日付 二復総第49号。

参考文献

[編集]
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  • 海防艦顕彰会『海防艦戦記』、原書房、1982年。
  • 岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦 敵制空権下の多号作戦の全貌光人社〈光人社NF文庫〉、2010年12月(原著2004年)。ISBN 978-4-7698-2666-8 
  • 木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年5月(原著1989年)。ISBN 978-4-7698-2949-2 
  • 隈部五夫ほか『海防艦激闘記 護衛艦艇の切り札として登場した精鋭たちの発達変遷の全貌と苛烈なる戦場の実相』潮書房光人社、2017年1月。ISBN 978-4-7698-1635-5 
    • (223-243頁)戦史研究家伊達久『日本海軍甲型海防艦戦歴一覧 占守型四隻、択捉型十四隻、御蔵型八隻、日振型九隻、鵜来型ニ十隻の航跡
  • 月刊シーパワー No. 33 1985年12月号、株式会社シーパワー、1985年。
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』、出版共同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 坂本正器/福川秀樹 『日本海軍編制事典』、芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0
  • 菅野昭(原文)、嶋田潤(編)「第三章 マニラ・レイテ」『最後の戦没艦・第13号海防艦戦記 ~終戦前日、香住漁船団の懸命な救出~ 菅野元水兵長の手記から』ブイツーソリューション、2014年2月。ISBN 978-4-86476-177-2 
  • 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
  • 1994福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』、ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 防衛研修所戦史室 『戦史叢書』。
    • 第31巻 『海軍軍戦備(1) -昭和十六年十一月まで-』、朝雲新聞社、1969年。
    • 第46巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(6) -第三段作戦後期-』、朝雲新聞社、1971年。
  • 丸スペシャル No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、潮書房、1979年。
  • 「丸」編集部小艦艇戦記 海防艦「占守」電探室異状なし』株式会社潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2012年10月。ISBN 978-4-7698-2756-6 
    • (15-72頁)海防艦「占守」電探室異状なし"学徒兵かく戦へり"電探員が見た船団護衛始末記―北村栄作
  • 明治百年史叢書 第207巻 『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』、原書房、1977年。
  • 茂呂計造(竹水雷科、連管手)『南海の死闘 少年水兵の海戦記』近代文藝社、1994年9月。ISBN 4-7733-3262-X 
  • 矢花冨佐勝(朝霜乗組員)『駆逐艦勤務 日本海軍兵士の艦上での日常』新風社、2007年8月。ISBN 978-4-289-01255-8 
  • 海軍省
    • 昭和18年10月30日付 内令第2241号。
    • 昭和19年3月15日付 達第70号、内令第437号、内令第445号。
    • 昭和19年6月5日付 内令第738号。
    • 昭和19年8月16日付 内令第969号、内令員第1534号、内令員第1535号。
    • 昭和19年12月25日付 内令第1381号。
    • 昭和20年8月25日付 内令第747号。
    • 昭和19年5月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1467号。
    • 昭和19年6月8日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1509号。
    • 昭和19年8月6日付 秘海軍辞令公報 甲 第1555号。
    • 昭和19年8月20日付 秘海軍辞令公報 甲 第1569号。
    • 昭和20年9月26日付 海軍辞令公報 甲 第1929号。
    • 昭和19年5月29日付 海軍公報(部内限)第4700号。
    • 昭和19年8月24日付 海軍公報(部内限)第4779号。
    • 呉防備戦隊戦時日誌。
    • 第一海上護衛隊戦時日誌。
    • 第一護衛艦隊戦時日誌。
  • 第二復員省復員庁
    • 昭和22年2月1日付 復員庁第二復員局総務部 二復総第49号。
    • 残務整理部資料課 「レイテ作戦」。

関連項目

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