コンテンツにスキップ

洪文衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

洪 文衡(こう ぶんこう、1560年 - 1621年)は、明代官僚は平仲。本貫徽州府歙県

生涯

[編集]

洪豪と程氏のあいだの次男として生まれた。1589年万暦17年)、進士に及第した。戸部主事に任じられた。万暦帝が皇長子朱常洛を王に封じようとすると、文衡は同官の賈巌とともに上疏し、皇長子を皇太子に立てるよう主張して争った。ほどなく礼部主事に転じた。郎中の何喬遠と仲が良く、何喬遠が罪に問われて失脚したとき、文衡は考功主事の位にあったが、病を理由に辞職して帰郷した。

文衡は南京工部主事として再び起用され、郎中となった。旧制の復活につとめ、宦官の干渉を排し、冗費を節減した。工部の官にあること9年、光禄寺少卿に進んだ。1610年(万暦38年)[1]太常寺少卿に転じ、四夷館を監督した。顧憲成の起用について、御史の徐兆魁の批判を受けたため、文衡は万暦帝が徐兆魁の言に惑わされるのを恐れて、反論の上奏をおこなった。1612年(万暦40年)[1]大理寺少卿に転じた。服喪のため官を辞去した。

1620年泰昌元年)、文衡は太常寺卿として再び起用された。1621年天啓元年)7月、文衡は太廟に憲宗を祀らず、睿宗を祀るよう上疏したが、天啓帝に聞き入れられなかった。10月、死去した。享年は62。工部右侍郎の位を追贈された。

子女

[編集]
  • 洪嗣成(長男)
  • 洪嗣彦(次男)
  • 洪嗣廉(三男)
  • 洪嗣憲(四男)
  • 洪嗣藻(五男)
  • 洪氏(汪氏にとついだ)

脚注

[編集]
  1. ^ a b 国榷』巻81

参考文献

[編集]
  • 明史』巻242 列伝第130
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy