石原登
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石原 登(いしはら のぼる、1913年(大正2年)10月6日[1] - 2011年(平成23年)7月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。
経歴
[編集]鹿児島県薩摩郡里村[2][3](現薩摩川内市)で、石原善之助の五男として生まれた[2]。1930年熊本逓信講習所卒[4]。1937年(昭和12年)中央大学経済科を卒業[2][3]。日本特殊鋼管(のち八幡鋼管)創立委員となり、同総務課長、同企画課長を歴任した[2]。
戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙において鹿児島県から諸派(民権同志会)から立候補して初当選する[5]。当選後は協同民主倶楽部に入る[6](その後は協同民主党[7]から無所属倶楽部[8])。翌年の第23回衆議院議員総選挙では鹿児島2区から立候補して再選[9]。再選後は第一議員倶楽部を経て、日本自由党に入った[10]。1949年の第24回衆議院議員総選挙において民主自由党から立候補して再選した[11]。1952年の第25回衆議院議員総選挙で落選[12]してから日本民主党や自由民主党などから立候補したが落選続きで、1967年の第31回衆議院議員総選挙で落選[13]以後、立候補しなかった。2011年7月9日、咽頭癌のため死去、97歳[14]。死没日をもって旭日中綬章追贈、正五位に叙される[15]。
国政選挙歴
[編集]- 第22回衆議院議員総選挙(鹿児島県全県区、1946年4月、民権同志会)当選[5]
- 第23回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1947年4月、民権同志会)当選[9]
- 第24回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1949年1月、民主自由党)当選[11]
- 第25回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1952年10月、自由党)落選[12]
- 第26回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1953年4月、分党派自由党)落選[12]
- 第27回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1955年2月、日本民主党)落選[16]
- 第28回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1958年5月、自由民主党)落選[16]
- 第29回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1960年11月、無所属)落選[16]
- 第30回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1963年11月、無所属)落選[13]
- 第31回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、1967年1月、無所属)落選[13]
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第九十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1946年、34頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第15版 上』イ54頁。
- ^ a b 『郷土人系 上』193頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』66頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第22回』1741頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』516頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』523頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』536頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第23回』603頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』559頁。
- ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』385頁。
- ^ a b c 『国政選挙総覧 1947-2016』386頁。
- ^ a b c 『国政選挙総覧 1947-2016』388頁。
- ^ “【訃報】石原登氏(元自由党衆院議員)”. 産経新聞. (2011年7月14日). オリジナルの2011年7月14日時点におけるアーカイブ。 2023年9月20日閲覧。
- ^ 『官報』第5618号10-11頁 平成23年8月15日号
- ^ a b c 『国政選挙総覧 1947-2016』387頁。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第22回』衆議院事務局、1950年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
- 南日本新聞社編『郷土人系 上』春苑堂書店、1969年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
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