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荒蒔義勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荒蒔 義勝
荒蒔義勝
生誕 1876年8月28日
日本の旗 日本 茨城県
死没 (1959-11-06) 1959年11月6日(83歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1899年 - 1934年
最終階級 陸軍中将
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荒蒔 義勝(あらまき よしかつ、1876年明治9年)8月28日[1] - 1959年昭和34年)11月6日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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茨城県出身[1][2]1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業[1][3]。翌年6月、砲兵少尉任官[3]1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業[1][2][4]。その後、陸軍野戦砲兵射撃学校に配属[4]

1919年(大正8年)12月、野戦砲兵射撃学校教育部長に就任[2]1920年(大正9年)12月、砲兵大佐に昇進[2]1922年(大正11年)8月、近衛野砲兵連隊長に異動[2]1923年(大正12年)12月、陸軍航空学校下志津分校長となり、以後、航空関係の役職を歴任する[2]1924年(大正13年)5月、下志津分校が下志津陸軍飛行学校に昇格し初代校長に就任[2]1925年(大正14年)5月、陸軍少将に進級[2]

1929年(昭和4年)8月、明野陸軍飛行学校長に異動[1][2]1930年(昭和5年)6月、所沢陸軍飛行学校長に移り、同年8月、陸軍中将に進んだ[1][2]1932年(昭和7年)4月、陸軍航空本部付となり、同年9月、第9師団長に親補された[1][2]1934年(昭和9年)8月に待命となり、翌月、予備役に編入された[1][2]。1939年(昭和14年)4月1日に後備役となる[5]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

人物

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砲兵科出身であるが航空兵科に転じ、飛行学校の校長として教育に尽力[1]。現役を退いた後、グライダーの斡旋に努めた[7]

親族

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  • 息子 荒蒔義次(陸軍中佐)
  • 娘婿 山田清一(陸軍中将)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』38-39頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』158頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』156、158頁。
  4. ^ a b 『日本陸海軍総合事典』第2版、557頁。
  5. ^ 『官報』第3714号、昭和14年5月26日。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」1頁。
  7. ^ 『陸海軍人国記』386頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 伊藤金次郎『陸海軍人国記 - 軍人わしが国さ』芙蓉書房、1980年。
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