赤澤ナカ
あかざわ ナカ 赤澤 ナカ | |
---|---|
生誕 |
1871年11月 日本 新潟県蒲原郡長場村 |
死没 |
1941年4月(69歳没) 新潟県 |
活動期間 | 明治 - 昭和 |
団体 | 赤沢保育園(旧・新潟静修学校) |
影響を受けたもの | 倉田ミツ |
活動拠点 | 新潟県新潟市 |
配偶者 | 赤澤鍾美(あかざわ あつとみ) |
子供 | セイ、直二郎 |
親 | 渡辺藤次郎 |
赤澤 ナカ(あかざわ ナカ、1871年(明治4年)11月 - 1941年(昭和16年))は、日本最初の保育園と言われている新潟静修学校付設保育所(現・赤沢保育園)で、明治から昭和にかけて約45年間、保母であり続けた人物である[1]。
経歴
[編集]1871年(明治4年)11月新潟県蒲原郡長場村(現・新潟市西蒲区)中之口長場に渡辺藤次郎の長女として誕生した[2]。同村の渡邊勘治の後妻となって2人の子をもうけるも1896年(明治28年)離婚し、2人の子を残して中蒲原郡須田村(現・加茂市)の五十嵐家の養子となる[3]。
1896年(明治29年)頃、新潟静修学校を運営していた赤澤鍾美と再婚同士で夫婦となる[3]。日清戦争、日露戦争、韓国併合を経て、日本の大陸進出が盛んになるにつれ、新潟港の重要度が増し、新潟市の人口は増え続けていった。一方で、第一次世界大戦後の不景気も手伝って、共働きの低所得者層が増え、園の定員は増員に次ぐ増員を重ねていた[4]。当時は、保育施設などの福祉政策に対する理解が低く、赤澤家は自助として保育所を運営していた[5]。
ナカの保育スタイルは、離婚前の短期間の子育て経験を出発点として、西蒲原郡の風土に根差した子育ての民俗や、近くの西堀幼稚園に通い、はるか年下の倉田ミスに教えを乞うた[5]。そしてその教育課程や教育内容の中から、合うものを取り入れて確立されていった。ナカはよく保母たちに「人様の子どもを預かっていることを忘れてはならない」を口酸っぱく言っていた[6]。
1937年(昭和12年)3月、夫の鍾美に先立たれたことに伴い新潟静修学校は閉鎖され、2代目守孤扶独幼稚児保護会(しゅこふどくようちじほごかい)会長に就任し運営にあたるも、4年後の1941年(昭和16年)4月に死去した[7]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 山崎和美「保育の灯をともして 赤沢保育園 赤沢ナカ」『雪華の刻をきざむ 新潟近代の女たち(新潟女性史クラブ(著))』、ユック舎、1989年3月、11-34頁。
- 伊藤充『保育者の源流 赤澤ナカ』ウエストン、2022年2月。ISBN 978-4-9912167-2-5。