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鄭根

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鄭根
定南王鄭根(『鄭家正譜』より)
各種表記
漢字チュノム 鄭根
北部発音: チン・カン
日本語読み: てい こん
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鄭 根(てい こん[1]、チン・カン、ベトナム語Trịnh Căn / 鄭根徳隆5年6月13日1633年7月18日) - 永盛5年5月10日1709年6月17日))は、後黎朝大越の権臣、東京鄭氏の第6代当主。

生涯

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西定王鄭柞の四男。陽徳元年(1672年)、父の命により御林軍を率いて大挙南下し、広南阮福瀕中国語版を討伐した。正和3年(1682年)に鄭柞が死去すると跡を継ぎ、朝廷から定南王に封じられた。国政改革に取り組み、官員を定期に審査する制度を制定した。同時に法律を改革して、賭博行為を禁止した。

正和15年(1694年)、ラーンサーン王のスリニャ・ウォンサー英語版の死後、ラーンサーンには混乱が起こり、3つの小王国(ヴィエンチャン王国ルアン・プラバーン王国チャンパーサック王国)に分裂した。鄭根はラオスに派兵して、アユタヤ軍に対抗させた。その後、チャンパーサックが大越の支配下に入った。

永盛5年(1709年)に死去、曾孫の鄭棡(良郡公鄭栐の子の晋国公鄭柄の子)が跡を継いだ。昭祖廟号を追贈され、康王された。

家族

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男子

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  1. 良郡公 鄭栐
  2. 謙郡公 鄭椽
  3. 提郡公 鄭閏

女子

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  1. 郡主 鄭氏玉棶 - 彬郡公鄭拾に嫁した。
  2. 郡主 鄭氏玉槺 - 貞祥侯黎時棠に嫁した。
  3. 郡主 鄭氏玉欄 - 忠郡公黎時寮に嫁した。

出典

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  1. ^ 小林知 著「鄭根」、池内宏; 矢野仁一; 橋本増吉 編『東洋歴史大辞典』 中(縮刷復刻)、臨川書店、1986年10月1日、1400頁。ISBN 978-4653014690 

参考リンク

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先代
鄭柞
東京鄭氏第6代当主
1682年 - 1709年
次代
鄭棡
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