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長尾半平

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長尾半平
長尾半平

長尾 半平(ながお はんぺい、1865年9月17日慶応元年7月28日[1]) - 1936年昭和11年)6月20日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本土木技術者、鉄道技術者、教育者政治家実業家俳人でもあり、「秋邨」と号した。

人物

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祖伯父は長尾秋水。1865年(慶応元年)村上藩士の長男として、越後国村上堀片(現・新潟県村上市堀片)で生まれる。若くしてクリスチャンとなり禁酒主義者となる。1879年から地元新潟の語学校に入学したが、同1885年学制改革により同学校が廃止し上京。築地英語学校に通うほか青山学院で聖書研究。

1887年(明治20年)大学予備門から工部大学校(現東京大学工学部)に進学し、後身の帝国大学工科大学土木工学科を1891年に卒業[2]

卒業後は内務省に入省。土木監督所に勤務の後、山形県、つづいて埼玉県土木課長をへて、1898年(明治31年)台湾総督府民政部土木課長に就任[2]。また、1900年から台北市区改正計画委員会委員として、野村一郎堀見末子らと台湾市区改正計画にも取り組み、さらに土木技師として港湾築港や鉄道敷設など、土木事業および都市計画・国土計画策定に従事[2]

1901年(明治34年)4月からロンドンに港湾の調査滞在。このとき夏目漱石と同じ下宿に居住。帰台後は基隆港湾局技師をへて、1902年(明治35年)2月、土木局長心得に就任[2]。また台湾時代には婦人慈善会商議員長などをつとめ、長尾奨学金を創設した。

1910年、後藤新平の招きで鉄道省に移籍し、鉄道院技師に転任。1911年には鉄道院業務調査会会議副委員長。その後鉄道博物館掛長となり、交通博物館設立に尽力。1913年鉄道院管理部長。1916年以降は九州・中部各鉄道管理局長、鉄道省理事を経て、1919年に西シベリア鉄道国際管理委員会副委員長に就任。

1921年からは東京市電気局長に。東京市では市長後藤新平と電気局長の半平で、名前に田がつく3人助役とともに「三田二平の新市政」と呼ばれた。

1930年、衆議院議員に当選し、立憲民政党に属した。

日本国民禁酒連盟(現・日本禁酒同盟)理事長として禁酒運動に、また麻薬中毒者救護会理事など社会活動にも尽力。その他教文館初代会長、和光学園園長、明治学院理事、東京女子大学副学長などを務めた。

亡くなる直前には朝鮮総督府に転任し、同地で死去した。墓所は多磨霊園[3]

著書に、禁酒叢話(1928年)など。長尾のロンドン時代については夏目漱石がエッセイ『過去の匂い』に書いている。

栄典

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位階
勲章

著名な子孫

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脚注

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  1. ^ 『日本キリスト教歴史大事典』976頁。
  2. ^ a b c d 黄俊銘「長尾半平と明治期の台湾営繕組織」『土木史研究』第11巻、土木学会、1991年、281-288頁、doi:10.2208/journalhs1990.11.281 
  3. ^ 長尾半平”. www6.plala.or.jp. 2024年12月8日閲覧。
  4. ^ 『官報』第8321号「叙任及辞令」1911年3月21日。
  5. ^ 『官報』第1105号「叙任及辞令」1916年4月11日。
  6. ^ 『官報』第2784号「叙任及辞令」1921年11月11日。
  7. ^ 『官報』第6450号「叙任及辞令」1904年12月28日。
  8. ^ 『官報』第8105号「叙任及辞令」1910年6月29日。
  9. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  10. ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。

参考文献

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関連項目

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