徳川家の将軍は思うがままに性を享楽できなかった?「大奥の床事情」
今月の歴史人 Part.4
将軍の〝床〟は大奥最大の秘密事項とされ、史料もほとんど残されていない。ここでは、残されたわずかな史料を手掛かりにその真相に迫っていく。将軍は1000人ともいわれる奥女中たちとの夜を、どのようなしきたりの上で過ごしたのだろうか──。
■将軍はいつでもハーレムとはいかなかった厳格な床事情

将軍の妾を選んでいる大奥の女たち江戸時代の武家ではとにもかくにもお家繁栄のため、子供をつくることはお殿様にとって命題だった。正室以外にも多くの側室を囲った。(国立国会図書館蔵)
大奥はハーレムで、唯一の男である将軍は思うがままに性を享楽していたーーという理解がある。もちろん、そういう一面があったのは事実だが、実際には将軍の性生活は制約だらけで、不自由そのものと言っても過言ではなかった。
房事(性交)は基本的に、一組の男女が密室で行うものであり、そこにタブーはない。また、原則として第三者が2人の性行為の実態をうかがい知ることもない。ところが、大奥ではこの常識は当てはまらなかった。
というのも、将軍の房事は世継ぎを作るのが最優先だったからである。できるだけ多くの子供、とくに男子を作ることを求められた。当時、乳幼児の死亡率は高かったので、多数の補欠を用意しておく必要があったのだ。また、多数の子供は政略結婚 で、全国の大名家と縁戚関係を結ぶ手段となった。

『千代田の大奥 御遊山』1000人以上の女性が暮らしたという大奥。みな将軍の子づくりのために励んだという。(国立国会図書館蔵)
一般に、男女の性行為の「時」と「場所」は夜間、寝室が多いであろう。ときとして異なる状況での情交もあったかもしれない。また、それは自由である。
つまり、男女の房事に、「時」と「場所」の制約はない。
しかし、将軍は正室や側室とは夜大奥の御小座敷と呼ばれる部屋で床入りした。それが決まりだったのである。
だから、たとえば昼間、将軍が江戸城の一画で好ましい女中に目に留め、情欲のおもむくまま、空いている座敷に引き込んで、そこで思いを遂げるなどは、とうてい許されることではなかった。
もし将軍が、あくまでその女中に執着すれば、手続きを経て、夜、御小座敷に呼ぶしかなかった。
また、一般的に男女の性行為には基本的にタブーはないから、お互いが望み、同意を得たもとであれば、自由である。それは時代を越えて、現代も同様かもしれない。
だが、将軍は正室や側室と前述のような奔放かつ自由な性行為をすることはできなかった。監視の目があったからなのだが、この点は後述しよう。
寝床では、将軍も相手の女性も慎み深く、ともに寝間着を脱ぐことす らなかったろう。
監修・文/永井義男