渡辺海旭
渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和8年(1933年)1月26日)は、東京・浅草出身の学僧。浄土宗の僧侶。社会事業家。阿雷狂史・壺月と号す[1]。
略歴
[編集]前田和男『紫雲の人、渡辺海旭』[3]巻末の年表によると、以下の通りである。
明治5年(1872年)、東京の浅草の田原町にて、渡辺啓蔵、トナ夫妻の長男として生まれる。明治14年(1881年)に抜嫡届けが出され、翌明治15年(1882年)に抜嫡届けが受理され、浅草松清町の萬照寺に入る。
明治20年(1887年)、小石川区初音町の浄土宗源覚寺住職、端山海定のもとで得度。海定の一字をもらいうけて、海旭となる。同年9月、浄土宗学東京支校(のちの芝中学校・芝高等学校)に入学。明治22年(1889年)、浄土宗学本校に進学し、望月信亨、荻原雲来と出会う。この頃、「壺」を頭字にした雅号を附けることとなり、抽選で「壺月」の号となって以来、壺月の号を一貫して用いた[4]。明治28年(1895年)、浄土宗学本校全科を卒業。『浄土教報』主筆。明治32年(1899年)、高嶋米峰、杉村楚人冠、境野黄洋らと仏教清徒同志会を発足。
明治33年(1900年)、浄土宗第一期海外留学生としてドイツへ留学。カイザー・ウィルヘルム第二世大学(ストラスブルク大学)に入学。エルンスト・ロイマンに師事。明治40年(1907年)、ドクトル・フィロソフィーの学位を受け、明治43年(1910年)に帰国。ただちに宗教大学、東洋大学教授に就任。明治44年(1911年)、回向院本多浄厳らと協力して、深川区平野町にドイツ的セツルメントの浄土宗労働共済会を設立。同年、芝中学校校長に就任し、死去までの20余年務める。
大正8年(1919年)、国士舘大学の教授、評議員に就任。大正15年(1926年)、大正大学開学、教授に就任。昭和7年(1932年)、高楠順次郎を補佐する形で関わった『大正新脩大蔵経』正統85巻、索引『昭和法宝総目録』2冊完成。
昭和8年(1933年)、敗血症により死去。
作家の 武田泰淳 は甥。
逸話
[編集]- 僧侶でありながら、様々な立場の人々と交流した。長谷川良信、矢吹慶輝、中西雄洞といった社会事業家、頭山満、ラス・ビハリ・ボース、徳富蘇峰といった国士、内村鑑三、堺利彦、幸徳秋水といったキリスト教社会主義者など、交友範囲は極めて広かった。死後、椎尾弁匡、姉崎正治、徳富蘇峰、高嶋米峰、相馬愛蔵らが追悼文を寄せ、土井晩翠は「渡辺海旭上人弔歌」を作った[5]。
- 卍を4つのLに見立てて、「Light(光明)、Love(愛)、Life(生命)、Liberty(自由)」を教育方針として重視した[6]。この教育方針は、芝中学校・芝高等学校の教訓「遵法自治」へと結実された。
- カルピスの名付け親として知られる。三島海雲から相談を受けて、五味の1つ、熟穌(「サルパス」)に「カルシウム」を合わせて、「カルピス」と名付けたとされる。
- 死後、留学中に出会った足立文太郎との取り決めに従って、遺体が解剖された[7]。
主著
[編集]著作集
[編集]- 『壺月全集』上下(壷月全集刊行会、1933年)
- 『渡辺海旭論文集』(壺月全集刊行会、1936年)
論文
[編集]評伝
[編集]- 増谷文雄『宗教的生活者』(第一書房、1936年)
- 知切光歳『日本の聖まんだら』(大蔵出版、1954年)
- 前田和男 『紫雲の人、渡辺海旭 - 壺中に月を求めて』(ポット出版、2011年)
- 西村実則 『荻原雲来と渡辺海旭 ドイツ・インド学と近代日本』(大法輪閣、2012年、新版2019年)
脚注
[編集]- ^ 壺月刊行会『壺月全集 下巻』壺月全集刊行会、1933年12月、609頁。
- ^ 田中健介『柴田徳二郎伝』(PDF)、9頁 。2011年6月5日閲覧。
- ^ 前田和男『紫雲の人、渡辺海旭』ポット出版、2011年。
- ^ 壺月刊行会『壺月全集 下巻』壺月全集刊行会、1933年12月、609頁。
- ^ 壺月刊行会『壺月全集 下巻』壺月全集刊行会、1933年12月、609-636頁。
- ^ 壺月刊行会『壺月全集 下巻』壺月全集刊行会、1933年12月、370-373頁。
- ^ 壺月刊行会『壺月全集 下巻』壺月全集刊行会、1933年12月、608頁。