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利用者‐会話:Haydar

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ウィキペディアにようこそ!

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こんにちは、Haydarさん、はじめまして!Suisuiと申します。ウィキペディアへようこそ!

  • ウィキペディアで活動する際にはガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。
  • よろしければ自己紹介してみてください。
  • お隣の利用者ページは、ご自身の自己紹介の他、作業用のスペースなどとして利用することができます。
  • 執筆の際には中立的な観点および著作権にご留意ください。
  • 何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することができます。

あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。--Suisui 2006年5月24日 (水) 01:13 (UTC)[返信]

練習

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練習用に使います。


2006年9月13日 (水) 13:04 (UTC)




イランの歴史編集参加のお願い

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こんにちは。お世話になります。ただいま(というか半年近く長々と)イランの歴史という項目を書いております。当初は英語版からもってきたのですが、あまりのひどさに辟易し全面改稿を行っております。古代史に詳しくいらっしゃるTENさんにもご参加いただきかなり充実してきたところです。いまのところサファヴィー朝の前までは直したのですが、なにぶんにも私が近現代イランを専門とするため、前近代については妥当な叙述が出来ているか不安です。また、現在のところまずはでっかく書くという第一フェーズにすぎず、このあと内容整理や関連項目の整備、重要語句の拾い出しなどが必要と思われます。そういうわけですので、モンゴル帝国史をやってらっしゃるHaydarさんのご助力を是非たまわりたくお願いにあがりました。よろしくお願いいたします。--Kotoito 2006年6月25日 (日) 17:45 (UTC)[返信]

Kotoitoさん こちらこそ、いつもお世話になっております。ご用件の方、承りました。ただ、自分も学生に毛が生えた程度の知識量ですので、本田実信先生の論文などで引用されているくらいの内容になってしまうと思いますが、微力ながらお力添えできればと思います。
イランの歴史の英語版も確認しましたが、イスラム時代に入ってからが簡略に扱われているうえ、モンゴル帝国時代とイルハン朝はおろかティムール朝時代まで全然触れていないのは、さすがに問題が有るように思いました。しかしモンゴル帝国時代前後の関連項目だけでしたら、英語版wikiではチョパン朝やムザッファル朝まで手広く扱っているのにイランの歴史本文とのギャップが激しいですね。モンゴル帝国というかイルハン朝関係で行くとヘラートのクルト朝やケルマーンのカラヒタイ朝なども触れておく必要を感じますが・・・ ともかく後日なにかしら参加させていただきたいと思います。Haydar 2006年6月26日 (月) 20:44 (UTC)[返信]

今後の予定

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ジョチ・ウルスイルハン朝の人物について加筆していく予定。Haydar 2006年8月30日 (水) 13:21 (UTC)[返信]

モンゴル帝国関係をやるとなると、どうしても王家同士の親族について触れる必要性が、やはりあるように感じる。王族たちの動向が政治的に重要であるし、それには出自や姻戚関係も微妙に絡んでいるため、それの説明をするときにどうしても言及する時の材料に宗族の項目は必要になる。せめてフレグ家やジョチ家のようなモンゴルの主要王族にも、明朝金朝の項目のように「宗族」の項目を付け足すべき。『集史』は各々の帝王本紀の1部2部で后妃(ハータヴァーン)と皇子(シャーフザーデガーン)たちの項目がちゃんと設けられてあるし、『遼史』や『金史』、『元史』や『明史』にしても基本的に同じようなので、大元朝にしても宗族関係の項目で妃や皇子たちの係累情報は載せておくべきことだと思う。取り敢えず、ジョチ家、チャガタイ家、フレグ家の各々の当主たちから始めるか。その前にアルグンガイハトゥの項目を立てねばならないか(汗 Haydar 2007年2月23日 (金) 15:45 (UTC)(ハートゥーンの複数形は「ハヴァーティーン」だ(汗)[返信]
トゥースィーのところではご面倒をおかけしました。お恥ずかしい限りで、お礼に参りました。上記、すばらしい予定です。楽しみにしております。--Kotoito 2007年2月23日 (金) 19:17 (UTC)[返信]
わざわざコメントを頂き恐縮です。自分もムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(これもやや半端なうえイエス・キリストをわざわざ「マリア/ヨセフの子イエス」と言うくらい使い慣れない名称ですが(汗)の項目では誤りを訂正して頂いてありがとうございました。「アヤートッラー」などとよくよく字面を確認していれば間違わないような書き誤りをして赤面する事甚だしいです(汗しばらく前に流行った(?)「チンギス・ハーンの子孫は数千万人」とかいう怪し気な情報よりはモンゴル王族の姻戚関係を扱った宇野伸浩先生の研究あたりを反映させた記事を書ければとは普段から考えてまして、基本路線は本田先生や志茂先生の著書に準拠しつつ、ジョチ家などは赤坂先生の著書や北川先生の邦訳がありますのでそれらも活用して行きたいなと。自分も「読み易い文章」の書き方がいまひとつでして、忙しい中お手数ではありますがKotoitoさんに置かれては誤り等あったらその都度指摘して頂けたら有難いなと思います。
モンゴル帝国や大元朝の国政全体を考えれば、少なくともチンギス・カンからクビライまでのウイグル文字表記やアラビア文字表記が必要ですし、『集史』の事を考えればテムル・カアン時代までの大元朝側の王族たちの名称も漢字表記だけではなく、同時代的なアラビア文字と言うかペルシア文字表記を並記する必要があると思っています。ウイグル文字(モンゴル文字)は適当なフォントが無いのが残念ですが。(汗
Kotoitoさんもご存じのことかと思いますが、モンゴル帝国といいますか大元朝の場合、たまたま支配地域で漢字文献が多く作成され現在にまで伝存しているからというだけで、当事者たちはさまざまな言語を駆使して統治を行っていましたし、近年のモンゴル帝国史研究の多言語資料の発見とその研究成果をかんがみれば現在のような大元朝の王族たちの漢文資料に偏重した雰囲気はやはりある程度改める必要を感じます。せめてテムル・カアン以降は人名表記部分にも漢字表記に加えチベット文字表記も加えるべきだと思っています。通常の辞典類だったら紙幅を考慮してそのような一般的には煩雑になるかも知れない情報は省かれがちになっていますが、そのような細かい問題も分量を気にせず任意で編集できることがwikipediaの大きな強みだと自分は思っています。そのため何とか日本語の文献でも多く指摘されている問題なども反映出来ないものかと考えています。ただ、そのような他言語・文字表記は東洋史関係で普段編集されている方たちに、煩雑ゆえ必要無いと退けられるのではないかという不安があり、大元朝部分は手をつけないでいますが・・ 勿論自分はチベット語関係はほとんど良く知らないので必要性は認識していても編集出来ないという根本的な問題もあります(苦笑 Haydar 2007年2月25日 (日) 01:12 (UTC)[返信]
取り敢えずアルグンの項目を設置。内容は追々書き足して行くつもり。宗室の項目についてはまだ作成中。后妃・側室たちの係累情報について調査中のため、もう少し時間が掛かるかも知れない。ガザン・ハンオルジェイトゥの項目を設置してから早1年になるが、マムルーク朝やジョチ・ウルス、チャガタ・ウルスとの対外関係や国内の動向についてもう少し整理して書かねばならないように思う。ゲイハトゥの設置とバイドゥの加筆も含めて今後の課題としたい。Haydar 2007年2月27日 (火) 11:30 (UTC)[返信]

こんにちは

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会話者ページでは始めましてになるかと思います。Tantalと申します。Portal:イスラームへのご協力ありがとうございます。

さて、今日はついでのお誘いといえば怒られるかもしれませんが、Wikipedia:ウィキプロジェクト_イスラームに参加していただければと思いまして、お声かけさせていただきました。

現在、8名の参加者が参加していますが、専門はばらばらです。

  1. 私は、本職はマレーシアとインドネシアの現代史・政治、でも、最近レバノンに没頭中。
  2. Eine kleineさんはインドネシア現代政治。
  3. F.V.Eさんはトルコ。
  4. Kotoitoさんは、イラン。
  5. Хосодаэвлериさんは、クリミア半島・帝政ロシア。

と多岐にバランスよく散らばっています。ぜひ、ご参加してください。--Tantal 2007年2月24日 (土) 02:47 (UTC)[返信]

> Tantalさん こちらこそ、Portal:イスラームではお世話になりました。正直申しますと、イスラームの専門分野に明るく無いためアラビア文字の綴りやラテン文字表記くらいならばちょこちょこ手を加えられるかなと思い、いささか名前を列ねるのも気恥ずかしい感じがしましたのでWikipedia:ウィキプロジェクト_イスラームの参加は遠慮しておりました。しかし、お誘いを受けましたので一考してからそちらへお返事したいと思います。Haydar 2007年2月25日 (日) 01:28 (UTC)[返信]

今後の予定2

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画像:Guyuk_khan's_Stamp_1246.jpg 画像:QutadughuBiliq_wien_p.10.jpg
画像を2つアップロード。 初めてのため不手際が無いかちょっと心配(汗 Haydar 2007年3月3日 (土) 14:03 (UTC)[返信]

上記画像:Guyuk_khan's_Stamp_1246.jpgについて著作権保護期間を満了していない可能性高し。Haydar 2007年3月4日 (日) 01:35 (UTC)[返信]
とりあえず問題解決。あと下書きの方にフレグの宗室表の第一案をアップ。項目の区分けは永楽帝のものを参考。人物の情報については矢島先生のサイトの『集史』「フレグ・ハン紀」を参照した。取り敢えずこれを叩き台にして、志茂先生の本や『集史』本文を参照しつつちょこちょこ修正を加えて行くつもり。ただリストとして読みにくいのではという不安が・・・ 『ムイッズル=アンサーブ』が使えればもうちょっと情報の精度があがるのだろうけれど・・ Haydar 2007年3月7日 (水) 17:08 (UTC)[返信]

Image:QutadughuBiliq wien p.10.jpgには著作権上の問題があります

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著作権の状態が不明です

こんにちは。Image:QutadughuBiliq wien p.10.jpgをアップロードして頂き、ありがとうございます。しかし、この画像(ファイル)には著作権の状態またはライセンスが明記されていないため、著作権上の問題があります。出典とライセンスのないファイルは、一週間後に削除されます。

ウィキペディアにアップロードされるすべてのファイルは、画像利用の方針に従っており、かつ詳細な出典とライセンスが明記されている必要があります。画像の著作権表示タグを参照し、適切なライセンスを表すタグを貼付してください。どうぞよろしくお願いします。

重要: あなたがこのファイルの他にもファイルをアップロードされているならば、あなたのアップロード記録を見て、他のファイルにも同様に出典とライセンスが明記されているかどうか今すぐ確認してください。それらのファイルや、今後あなたがアップロードされたファイルに出典やライセンスが記載されていなければ、同様に削除されますKenpei 2007年3月3日 (土) 19:31 (UTC)[返信]

とりあえずアップした二つの画像はパブリックドメインの表示を出しました。Haydar 2007年3月7日 (水) 17:11 (UTC)[返信]

加筆、ありがとうございます

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いつも、お世話になります。

イスラーム建築における加筆、ありがとうございます。特に、フレグ・ウルスの時期は、自分で書いていてミッシング・リンクになっていたので、本当に助かりました。

よろしければ、イスラーム建築の加筆に利用した参考文献も併記していただければ幸いです。--Tantal 2007年3月15日 (木) 13:13 (UTC)ファイル:800px-Vanda bensonii.jpg[返信]

Portal:イスラーム

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サボり気味でしたポータル整備を少し進めてみました。

この調子で、作っていくと左右のバランスが崩れるのでいい案をお持ちでしたら意見をお願いします。--Tantal 2007年3月24日 (土) 05:27 (UTC)[返信]

先週のイスラーム建築に続き、Portal:イスラームの執筆、お疲れ様です。左右のバランスと言いますと、左側の欄と右側の欄の幅のバランスということでしょうか? もしそうなら左側は各項目の見出しとして文章が載り、右側は新着情報や執筆依頼項目のリストになっていますので、左は広めに右は狭くても問題ないように思います。なので、左右比だいたい6:4〜7:3くらいで構わないように思いますが、いかがでしょうか? また改めてPortal‐ノート:イスラームで述べさせていただきたいと思います。Haydar 2007年3月25日 (日) 04:27 (UTC)[返信]
お世話になります。Tantalです。
表記の揺れに関しては、アラビア語トルコ語ペルシャ語ウルドゥー語インドネシア語マレー語ベンガル語スワヒリ語のいずれを採用するかは悩みの種になるかと思いますが、できるだけ、現地音に忠実に行きましょう。Muhammad-Mohamed...と揺れは仕方ない言語ですから(アラビア語に母音が3つしかないのを日本語の5母音に当てはめようとするのですから)。
左右のバランスの件ですが、執筆依頼を書いていったら、バランスが良くなっていったので、問題ないですね。
あとは、英語版にあるように、カテゴリーツリーの大まかなところをPortal:イスラームの右側に入れてしまえば、いいかとは思いますが。Wikipedia:ウィキプロジェクト_イスラームのカテゴリーツリーをそのまま、導入して問題ないでしょうかね?--Tantal 2007年3月25日 (日) 05:15 (UTC)[返信]
前近代の固有名詞、人名ならばテュルク語、アラビア語、ペルシア語が混在する場合も多いですので、各々の言語の仮名表記を個別に行うのが一般的のようです。法学とか宗教関係の人物であればどちらかというとアラビア語読み優先の場合が多いですが。ペルシア語ならガージャール朝以降は現代ペルシア語読み、オスマン朝時代以降ならばオスマン語読みというかトルコ語読みに統一されているようですね。ベクタシュの場合もそれに倣うべきですが、普段使っている岩波のイスラーム辞典が何故かトルコ語表記しか載せていなかったせいでちょっと泡を喰ってあのように書いてしまいました。wikipediaでベクタシュについても特別トルコ語読みのみにする必要もないでしょうから、単に「ベクタシュ」か「ハーッジー・ベクタシュ・ワリー」といった具合で良いかも知れませんね。メウレヴィー教団の始祖「ルーミー」の事を「シャムセディン・ルーミー」などとは殆ど聞かれませんし。ああ、でもベクタシュの仮名表記はちょっと一通り見た方が良いか。
>カテゴリーツリー 良さそうな感じもしますので、とりあえず実際にどうなるか一度アップされてプロジェクトに参加されている方々の意見も伺うのも良いかと思いますが、いかがでしょう。Haydar 2007年3月25日 (日) 16:37 (UTC)[返信]

(インデント戻します) ポータルの整備にほぼ1月、話題と哲学を除けば、ほぼ、ある程度の形が出来上がったと思うのですが、どうでしょうか?もう一度、コメントいただければ幸いです。--Tantal 2007年3月31日 (土) 11:56 (UTC)[返信]

先週に引き続きお疲れ様です。ご用件について承りました。改めてポータルの方でコメントさせていただきたいと思います。Haydar 2007年3月31日 (土) 12:23 (UTC)[返信]


第3回執筆コンテスト

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どうも、いつもお世話になります。Tantalです。

さて、Wikipedia:執筆コンテスト/第参回執筆コンテスト/エントリー項目 (分野B)/コメント#イスラーム建築で、他の方の質疑応答が行われております。

私だけでは、解答できない部分もあるので、ご協力お願いします。--Tantal 2007年4月3日 (火) 13:08 (UTC)[返信]

リンク先の議論を拝見しました。しかし、正直申し上げますと自分がお役にたてるかかなり自信が有りません(汗 と申しますのは、実は「イスラーム建築」という名称自体にはある程度疑問を持っていまして、そこら辺の問題については佐藤次高先生や羽田正先生などの諸先生方が何年も前に「イスラームの都市性」に関する研究で述べておられる通りの懸念を抱いています。勿論宗教的な要素としては共通のものがムスリムの居住地域の建築に反映されていますが、かれらはイスラーム勃興以前の地域的な建築文化の上にこれらの宗教的な要素を汲んで宗教施設をつくっているわけで、さらに在来の世俗的な住居も含めた全部が果たしてムスリムとその周辺の建築文化のようなものに一律に「イスラーム」というカテゴリーで括って良い物か、という根本的な問題があります。あまり項目の定義部分は触れたく無い、というのが正直なところです。さりとて建築文化の拡散にイスラーム(政権など)が関わっている部分も大きいのでこれもなかなか説明しないわけにはいかない。非常に難しい問題で自分が議論に立ち入るには荷が勝ち過ぎる分野ですが、少し自分なりに建築文化について考えをまとめてから議論に加わってみたいと思います(汗 Haydar 2007年4月3日 (火) 18:47 (UTC)[返信]

雑記

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源義経の「義経=ジンギス・カン説」の項目にあった、「なお、チンギス・ハーンに関しては生年が諸説あるだけで、家系図は判明しており義経とは関係ない。」は良いのだが、続く「ただし、昔の家系図は書き換えることも多く確実に断言は出来ない」という一文が甚だ不穏当な書き方をしているので編集しようとしたが、果たして日本の歴史上の人物の項目で、それとは全然関係ない中期モンゴル語が〜とかバル・ヘブラエウスが小アルメニア王国のハイトンがどうとか『集史』「チンギス・ハン紀」や「モンゴル部族誌」がとか『華夷譯語』云々なんて話しなんて、する必要&しても良いものだろうかと思いとどまって途中で止めてしまった。うーん、どう簡潔に説明すべきだろうか・・・ この終わり方で放っておいた方が良いとも思えないけれど。Haydar 2007年4月18日 (水) 19:51 (UTC)[返信]

ちょっと、遊牧民の政治文化史の伝統云々で、手を入れておきました。専門家として不適切な点に手を入れていただければ幸いと存じます。--ウミユスリカ 2007年5月24日 (木) 00:19 (UTC)[返信]
加筆お疲れ様です。自分もだいたいのことは知っているという程度ですが(汗、それでも書くべき事は書いておかねばならないだろうとは常に思っていました。でも最近さらに信憑性がどれだけあるか首をかしげる記述が増えたのでどうしたものかと。
チンギスの系譜情報自体は『元朝秘史』や『集史』など様々ありますが、系統譜の信憑性云々の問題は日本の名家の先祖たちの情報にしても同じ問題があると思います。それをわざわざ源義経に結び付ける証拠や必然性は、これらモンゴル帝国以降の大元朝の領域や中央アジア、イランなどで編纂された現存の諸資料には存在していないため、その旨書いておく必要はあると思います。Haydar 2007年5月27日 (日) 14:45 (UTC)[返信]

義経=ジンギスカン説らりたさんが記事の巻き戻しの提案をされたけれど、今月に入ってからのノートの推移は文献学というか書誌学というかについて1から説明せねばならない状況で、項目自体の構成をどうするか、という肝心の問題になかなかたどり着けそうにない。ペルシア語文献についてはKotoitoさんや自分がおおよそのことは説明出来そうだし、中国側の資料についてはらりたさん他の方々で何とかなりそうだけれど、源義経というか平安末期から鎌倉時代かけての文献学について詳しい方に助け舟を要請した方が良いんだろうか・・ 玉葉とか自分には手に余る。

それはともかく、今年というか今後の目標。イルハン朝の項目について、文化史方面の強化と前史としてのイラン総督府時代の記事が必要。先日投稿に失敗して記事に出来なかったけれど、(やっと)新設したゲイハトゥとイルハン朝の項目でもの説明が必要。交鈔の項目がまだ無いのも意外と言うか。ルーム・セルジューク朝の項目、内容があまりに貧弱なので、英語版などを参考にしつつ大幅に加筆が必要。チョルマグンやバイジュ・ノヤンについてはルーム・セルジューク朝やアルメニア王国、グルジア王国とも大きく関わるのでどこかに書かねばならないと思う。英語版ですでに項目が立ってるのでアナトリアのダーニシュマンド朝やアーゼルバーイジャーン地方のイルデニズ朝などのイラン周辺のアタベク政権も出来れば。クルト朝ケルマーン・カラヒタイ朝(項目名をどうするか)も当然必要。Kotoitoさんからのお誘いもあるのでイランの都市名や地域名も徐々に補充出来れば良いなと。

昨年からの懸案のチンギス・カン家の王族たちの系譜情報については、イルハン朝の君主たちについてはおおよそ出来たが、バイドゥの項目もやや貧弱なのでこれも強化の必要あり。アブー・サイードもそのうち設置の必要。アルパ・ケウンも出来れば。チャガタイトルイグユクモンケクビライの系譜情報も入れたい。大元朝のカアンたちも金朝の宗室情報並みにできればしたい。ティムール朝はヘラートのスルターン・フサイン・バイカラやミール・アリー・シール・ナヴァーイーがまだ無いのは寂しい。シャイバーニー・ハンも。ラシードゥッディーンも削除されたままなのでいい加減作らねば。

すっかり失念していたけど、昨年夏にウミユスリカからマングダイについて意見を求められていたんだった・・・(汗 こちらは改名と言うか削除というかしないと駄目そうなので、何とかしないと。 --Haydar 2008年2月16日 (土) 11:38 (UTC)[返信]


シーボルトが『日本』第1巻で『航海年鑑(Annales des voyages, de la géographie et de l'histoire)』第24号から抜萃したと述べている、新井白石の『蝦夷志』のフランス語訳をフランス国立図書館の電子図書館サイトガリカで検索していたら発見。"DESCRIPTIONS de la Terre Iesso, traduites du Japonais par feu M. TITSINGH, ambassadeur hollandais au Japon." ,Annales des voyages, de la géographie et de l'histoire, tom. XXIV, 1814, 145-214. という題のものらしい。http://visualiseur.bnf.fr/CadresFenetre?O=30000001027261&I=2&M=tdm  今は無いけど記事本文の脚注で参考文献としてあげられていた、岩崎克己「シーボルトの成吉思汗即義経説とその後世への影響(2)」『中外医事新報』第1253号(1938年)で、岩崎克己が「実見した事がない」としつつも「ひょっとしたら「三国通覧図説」の仏訳者 H. J. Klaproth ではなかつたかとも思はれるが」と述べているが、どうやらこの新井白石の『蝦夷志』(仏訳本文では Iesso-Ki と綴っているのでここでは『蝦夷記』か)を仏訳したのはシーボルトが『日本』で何度か名前を挙げているイサーク・ティチング M. Isaac TITSINGH らしい。ティチングは『日本王代一覧』などの翻訳者として名前があがっていてクラプロートはその校閲者としても出て来る。シーボルトも含めてオランダ商館については自分は全くの無知であるため、シーボルトの『日本』についての研究やティチング自身についてもこの『航海年鑑』に寄稿された『蝦夷記』についても、岩崎論文や新井白石全集にあった『蝦夷志』本文との対照も含めて検討してから記事の編集に着手しよう。それにしても流石と言うべきはぐぐーるとがっりかか。国内の図書館の検索では引っかからないから絶望視していたのだが、ネットで見られるとは思わなかった。電子図書館様々と言わねば。--Haydar 2011年4月17日 (日) 20:21 (UTC)[返信]

はじめまして ササン朝の諸王について

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ササン朝記事に対する加筆ありがとうございました。 初めて会話ページに書き込むので、何か間違い等あるかもしれませんがご容赦ください。



ササン朝の君主を皇帝と表記してもよろしいのでしょうか?中国の皇帝とローマ皇帝を同一視するのは問題であり、今ではいい訳だとは考えられていません。それでもローマemperorは皇帝と表記されてはいるのですが…。ペルシア帝国という言葉があるのでもしかしたら帝王という称号があるのかもしれないと思って君主という名でぼかしていました。皇帝という名で定着しているということでよろしいでしょうか?何分素人なもので…ご指導お願いします。--求道者 2007年4月28日 (土) 02:09 (UTC)[返信]

連日のサーサーン朝関連の記事の執筆、お疲れ様です。自分もサーサーン朝を含め古代史全般に関しては全く素人ですので、あまり詳しい事は分りませんが(汗
ご存じかと思いますがノート:サーサーン朝#表記において221.31.150.12氏の「表記のゆれ」を是正すべきとの意見が出ましたが、自分もこれは以前から何とかせねばなるまいなと思っていましたのでタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』やムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(手頃な通史でしかも記述が簡潔でしたので)などの表記を基準にして書き足す事にしました。
今回の加筆は、取り敢えずアルダシール1世とシャープール1世を基準にしたのですが、確かに自分も「皇帝」、「ペルシア帝国」の表記は問題あると思いました。個人的には「ペルシア帝国」は古代のハカーマニシュ王朝くらいしか馴染みの無い言い方だと思いますので、サーサーン朝に使うにはいささか不的確かも知れません。アルダシールやシャープールの記事との整合性を合わせるために無理に「ペルシア帝国」という単語をそのままコピーしたのですが、自分としては多くの辞典類などで歴代君主たちの説明で単に「サーサーン朝」、Sasanian、Sasanid、Sasanid Dynasty などと書かれていますので、「サーサーン朝」だけで充分だと思います。この「ペルシア帝国」というのは削除修正しても良いかも知れません。
さて、もう一方の「皇帝」。これは自分自身も色々悩んだのですが、加筆する時、敢えてアルダシールとシャープールの記事のから「皇帝」という表記をそのまま踏襲する事にしました。
一応、何故その表記をそのまま使ったのか理由らしきものがありまして、ひとつには、最近、青木健先生が出された『ゾロアスター教の興亡 サーサーン朝ペルシアからムガル朝まで』で「初代皇帝アルダフシール1世」「第2代皇帝シャーブフル1世」という表現をされていましたので、パフラヴィー語、ゾロアスター教、サーサーン朝の研究をされている青木先生もサーサーン朝の君主を「皇帝」と呼んでおられるから、記事の説明としておおよそ許容されるかも知れない、と思いました。
もう一つは、明朝初期に編纂された言語資料、『華夷譯語』の一編でペルシア語と漢語の対訳字書である『回回館譯語』に shāhanshāh という単語を「天皇帝」と訳していたはず、と思って表記を「皇帝」ままにしたのですが、
よくよく調べたら「天皇帝」としていたのは「パードシャー」 پادشاه pādshāh ([立巴]得傻)の方でした(汗
『回回館譯語』で pādshāh という単語は、「天皇帝」の他に「君臣」という時の「君」という意味としても用いられていますが(「臣」はワズィール vazīr )、『集史』や『選史』などでは pādshāh は「君主」という程の一般的な呼称として頻繁に使われている単語で、サーサーン朝の君主たちの説明にも使用されています。10世紀にタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』をペルシア語に翻訳したバルアーミーの『タバリーの歴史』でも治世を Pādshāhī と呼んでいますし、タバリーの『諸使徒と諸王の歴史』本文でも「ペルシアの諸王(マリク)」 ملوك الفرس mulūk al-Faras と呼んでいます(ただ、歴代東ローマ皇帝に対して、サーサーン朝の شاهنشاه shāhanshāh に対応する呼称としては「カイサル」 قيصر Qayṣar という称号で呼ばれていますが、「ルームの王」 ملك الروم malik al-Rūm とも普通に呼んでいます)。
一方、学問的にサーサーン朝の君主に対して「皇帝」という称号を用いいている例はどうかと言われると、自分が見る限りは青木健先生以外はあまり少ないように思えます。例えば、Encyclopedia of Iranica でもアルダシール1世のことを "the founder of the Sasanian empire" と説明してはいますが、個々の君主たちについては、"Sasanian king of kings"(アルダシール2世)や"Sasanian king"(アルダシール3世、バフラーム1世、バフラーム2世他)という具合で、岩波の『古代オリエント事典』でもシャープール1世などを「王」と書かれていました(「サーサーン朝」の項目も含めて春田晴郎先生が執筆者だったと思います)。
色々考えて「皇帝」という呼称をそのまま他の項目にも添付したのですが、いさかか勇み足が過ぎたかとやや反省しております(汗。この問題も、もしかしたらノート:サーサーン朝で改めて論議すべきことかもしれません。Haydar 2007年4月29日 (日) 17:31 (UTC)[返信]


 明確なご回答ありがとうございます。ペルシア帝国という表現は自分はウィキペディアで初めて見たんですが、民族系統によってペルシア帝国という表現をするからにはハカーマニシュとサーサーンでペルシア人優位主義とでも言えるようなものがあるのかな?と思ってたんですが特にそんなものもないし…かなり問題かな?という気がします。


 こちらはさておいて、早速青木先生の「サーサーン朝からムガル」までを現在読んでいるのですが、青木先生は本著でサーサーン朝の皇帝を「神官皇帝」として、著しく神官団の影響が強い性質を強調しておられます。  特に皇帝という表記に反対するわけではないのですが、シャーハンシャーという称号がある以上暫定的にそちらで表現しておくほうが無難ではないかなと感じています。  もしくは皇帝で表現しておき、皇帝のほうに時代の変遷による皇帝の意味合いの変化という形にして。時代の変化につれて皇帝の役割を記すという形にするのがいいのではないかと思います。ひとつの大きな文明圏に君臨する君主を皇帝として統一し、地域毎に大きな差異があることを強調するという形で。  そういう形で違和感を感じられなければそう編集したいと思いますがいかがでしょうか? --求道者 2007年5月4日 (金) 05:41 (UTC)[返信]

返信が遅れて申し訳有りません(汗 
ラテン語・ギリシア語、アラビア語の文献だと彼らは「ペルシアの王」としか呼ばれていませんし、確かにサーサーン朝の君主たちはダレイオス大王以来の古代の「ペルシア帝国」の後継者であることを国是としていたようではあります。しかし、どうも後世のパフラヴィー語やタバリーその他の文書群から伺える彼らの古代「ペルシア帝国」像は、われわれ現代人が思い浮かべる聖書やギリシア語文献などから得られる「ペルシア帝国」像などではなくて、『シャー・ナーメ』に記されたカヤーニー王朝やピーシュダーディー王朝といった伝説と言うか神話化された「ペルシア帝国」やヴィシュタースブ大王やダーラーヴ大王が活躍する歴史像なので、同じファールス地方から出現した勢力とは言え「ペルシア帝国」という言葉でひと括りにしても良いかどうかは個人的には疑問です。波斯や فرس Fars といった唐代やアッバース朝時代の名称にちなんで呼称を残すというのも手ですが、これらはむしろ地域名に由来する他称であって、政体の名称とは言い難いと思います。首都も後年メソポタミアのクテシフォンに移ってますし。
彼らの自称でいえば「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」ですから「エーラーン帝国」にした方が良い、とかいう話しも聞かれませんし。(それを言い出したらクシャーン朝やハカーマニシュ朝も「アルヤ帝国」になってしまいますが) タバリー以来のアラビア語やペルシア語文献でのかれらの一族・王朝の名称である「サーサーン朝」のだけで充分で、わざわざ「ペルシア」と前置きしなくても良いように思います。(「サーサーニユーン」も「サーサーニヤーン」も要は「サーサーンの一統の人々」という意味なので)」 ハカーマニシュ王朝と同じくパールス地方から出現したことは既にサーサーン朝の方でちゃんと触れてありますし。
> 特に皇帝という表記に反対するわけではないのですが、シャーハンシャーという称号がある以上
> 暫定的にそちらで表現しておくほうが無難ではないかなと感じています。
はい。自分も仰る意見に賛成です。「皇帝」号についてですがサーサーン朝の君主に対してローマ帝国のように「ローマ皇帝」などよりも一般化しておらず、研究者の間でも君主の呼称自体が「王」だったり「皇帝」だったりと揺れがありますので、やはり修正した方が良いように思うようになりました。例えば求道者さんが書かれた形式のような「シャープール1世はサーサーン朝の第2代君主(シャーハーン・シャー Šāhān-šāh である。」といった書き方の方がより無難ではないかと思いますが、いかがでしょうか。Haydar 2007年5月15日 (火) 12:08 (UTC)[返信]


では、そういったかたちでシャーハンシャーで統一しておこうと思います。ペルシア帝国につきましては自分自身素人なものでどういう風な表記で訂正していけば分かりませんので、なんともしようがありません。スタブにあるんでしょうか?記事への存在の疑問を提起するの様なものが?

タバリーについてなんですが、こちらもやはりHaydarさんのお手を煩わせることになるかもしれません。よろしくお願いします。私としてはタバリーといった簡単な名前だけで表現しておけばいいかなと感じているんですが、フルネームで表記したほうがいいんでしょうか?以前勝手にどこかの記事で簡略化してしまいましたが・・・

それと勝手にバハラームで統一してしまいましたが大丈夫でしょうか?日本で一般的な日本語読みで統一するなり、より現地の言葉に近いもので統一するなり表記がぶれていないか少し心配になりました。自分でどれが何読みかはっきり分からないので。--求道者 2007年5月20日 (日) 09:26 (UTC)[返信]


何度もすいませんが、今現在改めて、読み直したところ自分の勘違いが分かりました。上記のペルシア帝国についての自分の疑問はこの記事ペルシア帝国のアケメネス朝とサーサーン朝を一つのペルシア帝国としてくくり、この記事内容のように表現することに対する疑問でした。サーサーン朝ペルシアはいくつかの異文化圏を統合しての政体なため、帝国として表現することには何の問題もないと思われます。オスマントルコのところでも民族国家ではないという説明ありますし、古代に近い時代にまさかペルシア人国家と勘違いされる恐れもないでしょうし、わざわざ削るまでもないかなと思います。ご迷惑をおかけしました。--求道者 2007年5月22日 (火) 14:43 (UTC)[返信]


返信がいつも遅れてすみません(汗 サーサーン朝の歴代君主の更新に加えてタバリーの記事の新設お疲れ様です。こういう重要な人物の記事などは自分をはじめアラビア文字が読める人間がもう少し頑張らねばならないところと、お恥ずかしい限りです(汗 さて Bahrām についてですが、『古代オリエント事典』などでは「バフラーム」としているようですが、Bahrāmの h が子音だとはっきり表記できれば良いので「バハラーム」でも「バフラーム」でも良いらしいそうです。(テヘランやバフラインと同じ)
タバリーについてはおいおい整理して行きたいと思います。 Haydar 2007年5月27日 (日) 13:42 (UTC)[返信]

雑記2

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下書き2-2ジョチ・ウルスの主要系図(第2案)を作成。ジョチ王家の系譜情報については、近年資料へのアクセスが容易になり始めて、ここ数年でも日本語で読めるジョチ・ウルス関係の資料・論文が一気に増えた(主に北川誠一、杉山正明、赤坂恒明の各先生方の論文)。なるべく、この種の情報もジョチ・ウルスの項目で掲載できるようにしたいのが目的。今後リンクや文字飾りを増やして系図としての体裁を整え、フレグ家やチャガタイ家にも同種の系図を作り、併せて暗礁に乗り上げているフレグ家などの宗室情報も完成させたい。(いつ完成するやら・・・)

ただ、やはりトカ・テムル家の部分がごちゃごちゃとしていて見難い(汗 特に14世紀後半のオロス・ハンやトクタミシュ・ハンの存在はおろそかに出来ないので、彼らの出自を系図上に示しておきたいが・・・ 仮名変換した時の個々人の名前の尺の長さと、バトゥなどの時代との世代の隔たりを計算に入れると、やはり難しい(汗 Haydar 2007年6月30日 (土) 16:42 (UTC)[返信]

モンゴル帝国関係について、依頼を承諾してからそろそろ1ヶ月近くになるが、いまだにどれだけ説明すべきかで迷っていたり(汗 最近はようやく時間が採れ始めたので、依頼の件も含めてそろそろいろいろ書かねばならないが・・・ 取り敢えず「チンギス・カン」についてはモンゴル帝国時代と近代では称号が変化しているという問題と、モンゴル帝国時代の中世モンゴル語と『アルタン・ハーン伝』などが編纂された近現代モンゴル語では音韻が変化しているという問題は触れねば。それから、それらが原因になって日本における表記上の「揺れ」が生じているという3つ目の問題に触れる、という方向性に持って行った方が良いかもしれない。
「マングダイ」についてはいまだに不明(汗 『東方見聞録』あたりの情報だろうか? これももう少し守備範囲を広げないといけないかも。Haydar 2007年7月30日 (月) 15:51 (UTC)[返信]
いくらか検索を掛けてはいるが、どうやらやはりゲーム関係から引用されているらしい。ゲーム関係者が典拠とした情報の出所がよく分らない(汗>マングダイ う〜ん、弱った(汗 Haydar 2007年7月30日 (月) 16:18 (UTC)[返信]
マングダイについてそれらしい論文を発見。ただし、マングダイでなくマングイ manglai 。アルギンチ alginči と同じく「先鋒軍」「前衛」部隊のことらしいが、アルギンチとマングライの機能の違いが今一つ。もしこの「マングダイ」がこのマングライの誤記に由来するのであれば、記事全体をもう少し軍制の説明として全て書き直し、名称も修正、関連項目として中軍・コル(qol)や後方兵站部門アウルクについても設定し、あるいは右翼、左翼などについても設定する必要がありそう。「モンゴル軍の軍制」という感じの項目を新たに作ってそこに一括するという方法でも良さそうだけれど。さてどうしたものか。Haydar 2007年10月14日 (日) 18:10 (UTC)[返信]

PCが壊れてここ数日ログインできなかったが、やっとパスワードを思い出したので書込み。このままではいつまで経っても懸案のノート:モンゴル帝国の依頼を消化できないので下書きにとりあえず少しづつ記録を残しながら今月中くらいにちゃんと議論に参加できるようにしたい。Haydar 2007年8月21日 (火) 23:00 (UTC)[返信]

先月の半ばくらいにPCのHDをダメにしてしまい、ここ数日でやっとネットに繋げられるようになった。ところが、OSを入れ直したら以前Netscapeでやっと読める様なったギリシア文字のシグマの語末形(ς)やらテュルク・モンゴル語のラテン文字表記に使われるǰの文字やらが(案の定)表示できなくなっていた。ギリシア文字関係は6月くらいから文字化けし無くなってほっとしていたのだが・・・ なんで読み取れる様なったとかあらかじめ調べて置いた方が良かったと、今さら悔やまれるがどうしたものか(汗 Haydar 2007年9月6日 (木) 11:47 (UTC)[返信]
返信第一段のおおまかなところは出来たが、ペルシア語資料の刊本だとカイシャンはおおよそ「ハイシャン」の系統で表記されていることが分かった。論文での表記では Qayšan,Qaišan/Qayišan と書かれているが、これはどちらかというとモンゴル文字の表記というかいわゆるモンゴル文語表記のラテン文字転写なので、もとのモンゴル文字の綴りは分かっても中期(中世)モンゴル語での発音が、「カイシャン」なのか「ハイシャン」なのか分からない。聖旨関係の碑文ではあるいは尊称の「クルク・カアン」の方しか確認出来ていない。即位前のパスパ文字モンゴル語かチベット語碑文に出てくるのか、『五族譜』や『ムイッズル・アンサーブ』の表記から「カイシャン」にしているんだろうか?(汗 マングダイは未だに分からない。前衛軍は alginči のはずだが・・・ Haydar 2007年9月17日 (月) 18:58 (UTC)[返信]
ギリシア語資料(テオファネス年代記)に見られる初期イスラーム時代の人名表記。ムハンマド Μουαμεδ 、アブー・バクル Αβουβάχαρ 、ウマル Ουμαρος、ウスマーン Ουθμαν、アリーΑλη、ムアーウィヤ Μαυαΐς。 ΐς --Haydar 2008年2月20日 (水) 12:21 (UTC)[返信]

クビライの表記に付いて

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こんにちは、Haydarさん。らりたです。ノート:元寇ではお世話になりました。

今回お邪魔したのは、クビライ表記を全てフビライ表記に変えている方がいるのでその方との議論に参加していただけないかお願いに挙がった次第です。ノート:モンゴル帝国にて行っています。私はモンゴルに付いてはほとんど勉強していないので不安な状態です。Haydarさんの意見をお聞かせ頂けると有難いのですが。ご多忙のところ、不躾な頼み事で申し訳ありません。それでは失礼いたします。らりた 2007年7月7日 (土) 09:25 (UTC)[返信]

連日お疲れ様です。ご用件の方、了解致しました。現状の関連記事の内容からみて、いづれ「ハーン」の問題は書かねばならないと思っておりましたが(モンゴル文字の項目も一応関係しているのでもう少しちゃんと書かねばなりませんが(汗)、とりあえずはあちらのノートの方で自分の書けそうな範囲で参加したいと思います。Haydar 2007年7月7日 (土) 12:03 (UTC)[返信]
便乗ですみません。やはりモンゴル関係で、最近マングダイという記事が投稿されまして、どうもパソコンのゲームの設定書から歴史学記事を立ち上げているようなんですね。歴史学的な正確性に疑念を感じておりますので、こちらも目を通していただけませんでしょうか。お忙しいところ申し訳ありません。--ウミユスリカ 2007年7月7日 (土) 13:39 (UTC)[返信]
重ね重ねお疲れさまです。ちょっと忙しくしておりましてなかなか議論や編集に参加出来ずにおりました(汗 両方のご用件、承知しました。ただ、マングダイというのは人名ならば心当たりがあるのですが、部隊の種類や単位としてあったかどうかちょっと覚えが無いのが気になりますが〜〜・・ いずれにしろ近日中に何かしら書いてみたいと思います。Haydar 2007年7月16日 (月) 17:28 (UTC)[返信]


こんばんはHaydar!

私は「「元朝秘史」と「華夷譯語」における漢字使用の問題」という書名をわからなくてはならないのに、「華夷譯語」という言葉の読み方と意味が見付けられません。「華夷譯語」をモンゴル語や英語に翻訳して、もう読み方を書いてくださいませんか?それをhttp://en.wikipedia.org/wiki/User_talk:G_Purevdorj で書いてもいいですね。

Pürevdorj


PS: Huayi yiyu ですと今知りになった、でも日本語の読み方がないんです。

Pürevdorjさん、初めまして。『華夷譯語』(華夷訳語)についてですが、『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社、初版 2005年)の「華夷訳語」(担当:濱田正美)の項目のピンインでの表記では、 Huáyí Yìyǔ としているようですね。日本語による読みはそのまま「かいやくご」(ka i yaku go)です。中国語もお出来になる様ですから、こちらから説明する必要も無いかと思いますが、「華」は中華のこと、「夷」は夷狄のことでその「訳語」ということですから、敢えて英語にでも訳すとなると、"Chinese-Foreign language Translations" くらいの意味になるんでしょうか。
「「元朝秘史」と「華夷訳語」における漢字使用の問題」についてですが、東北大学の栗林均教授が2003年1月24-25日に韓国の壇国大学で開催された第16回韓国・モンゴル国際会議(The 16th International Conference KOREA and MONGOLIA)において発表されたもののようです。
恐らく、「『華夷訳語』と『元朝秘史』におけるモンゴル語の動詞過去形語尾=ba/=be, =bi, =bai/=beiを表す漢字について On the Chinese Characters Denoting Mongolian Verbal Endings =ba/=be, =bi, =bai/=bei in Hua-yi Yi-yu and the Secret History of the Mongols」『東北アジア研究』 Vol.9(20050328) pp. 57-87 がその時の講演会報告を論文にしたものだと思います。Haydar 2007年11月29日 (木) 11:47 (UTC)[返信]
ノート:モンゴル帝国に於けるご教授、ありがとうございました。正直、半可通の自分の意見が恥ずかしくなってしまいました。
議論相手のAranshuさんがここ一ヶ月ほど参加されていないようなので、どうしようか迷っていたのですが、後日フビライ・ハイドゥ・ハイシャンを元に戻して生きたいと思います。もう一度ありがとうございました。らりた 2007年12月19日 (水) 08:56 (UTC)[返信]
いえいえ、こちらこそどういたしまして。お返事が年末近くにまでずれ込んでしまい我が身の方がお恥ずかしい限りですが(汗、 らりたさんの理解された内容でおおよそ問題ないと思います。これは杉山先生もどこかで触れておられたことですが、この問題には「チンギス・カン」が何時の間にか「チンギス・カアン」で呼ばれるようになったという歴史的な問題も絡んでいまして、「カン」〜「ハーン」の問題など触れるとどんな方も凄まじく紙面を要さねばならないらしく、自分もその例に漏れず、といったところだと思います。(日本史関係の人物の項目を見てますと、「成吉思汗」じゃなくて「成吉思皇帝」の方が同時代的な漢語表記だからそのことも触れるべきかとか考えていたりしますが・・)
北元以降ならいざしらず、14世紀くらいのことを書いているのに資料的に言って「ハイドゥ」は無いだろう、というのがいつも個人的に引っ掛かってまして、元に戻される案には賛成です。御多忙のところすみませんが、編集については自分も参加しますが宜しくお願いします。
(追記)自分は時期的に参加出来ませんでしたが、ノート:元寇‎でも色々と難儀されたようでお疲れ様でした。記事でもノートでのコメントでもキツイ言い方は苦手でして、この手の議論には冷静に自分の意見を言えるかいささか自信が持てないので、取り敢えず収束したようで安堵しました。個人的にクビライが領土拡張主義的な人物だったかは行動や政策全体からすると疑問なので、それを当然視/前提としたような記事の書き方は自分も賛同出来ません。過去のコメントに配慮したらりたさんや61.120.163.47さんの対応や姿勢は適切で良好だったと思います。Haydar 2007年12月20日 (木) 22:20 (UTC)[返信]

イランのシャフルとシャフレスターン

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お世話になります。Kotoitoです。レイの話から、一応イランの都市の一覧イランの郡の一覧を作成してみました。後者は一応コンプリートしていますが、前者はペルシア語版の一覧から字訳したものとシャフレスターンのマルキャズを加筆した状態に留まっています。ところどころロガトナーメにもあたって確かめてはいるのですが、いまひとつ自信がもてません。ギーターシェナースィーの地名辞典も面倒くさくてなかなか引けません。実際、いまみてみたら、私は一貫してサブザバールをサブゼバールと字訳するような恥ずかしいことをしていました。これからも徐々に整備に努めようとは思っているのですが、新設シャフルなどいまひとつ読みが定かでないものなどがありますので、ご協力いただければ幸いかとおもい、お知らせまでに参りました。どうぞよろしくお願いします。まぁ、エンシャッラーではありますが、いずれこれらの諸都市の記事が日本語で読める日を。--Kotoito 2008年1月25日 (金) 21:07 (UTC)[返信]

返信が遅れて申し訳ありません(汗 イランの都市の一覧イランの郡の一覧の作成、大変お疲れ様です。これでイランの地名について編集の時の行動指針が定まりそうで大変有難いことです。シャフレスターンについてはあまり詳しく書けるものかやや不安ではありますが、少なくとも主要都市については仰る通りペルシア語版やイスラム百科事典イラン百科事典(こちらの項目の作成も御苦労様です)などを使いつつ編集を進めねばなりませんね。ご用件について了解致しました。自分の力量的にどれだけ手が加えられるものかはなはだ心許なくもありますが(汗 微力ではありますが編集に協力・参加申し上げたいと思います。
地名のカナ表記の問題はまた難しいですね。現代のイランの行政区分については全くの無知ですので、ロガトナーメあたりがまだ現代の地名検索で使えるのか存じませんが(汗 アダメク Ludwig W. Adamec. の Historical gazetteer of Iran のシリーズあたりはまだ地名辞典として有効でしょうか? 一応、4巻本中2巻目以降は革命後ですので(Meshed and Northeastern Iran,1981; Zahidan and Southeastern Iran,1988; Abadan and Southwestern Iran,1989)使えそうな雰囲気はあるのですが・・・ レイやニーシャープールなど主要な都市名についての問題はイランの都市の一覧のノートあたりでまた皆さんで相談しながら煮詰めて行きましょう。Haydar 2008年1月29日 (火) 13:10 (UTC)[返信]

ムカリ‎ジェベの加筆ありがとうございます

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Haydarさま、はじめまして Tosakaと申します。ムカリ‎ジェベへ加筆いただき、ありがとうございます。いくぶん勝手なお願いですが、両記事がある程度信頼しても良い内容だと思われましたら、「未検証」タグを外していただきますようお願い申し上げます。また、初版投稿者のような方が書かれました記事に関しまして信頼出来ない点がございましたら、「要検証」タグを付けるような編集をしていただけましたら感謝申し上げます。私自身は理系であり、歴史的記事には興味があっても加筆するほどの素養がございません。理系の記事でもマンガの記述を紛れ込ます編集はほんの少しあるようですが、かの投稿者のような歴史小説などを出典とする編集は一読者としては「恐怖」です。 勝手なことを書き込んで申し訳ございませんでした。ますますのご活躍をご期待申し上げます。--Tosaka 2008年6月12日 (木) 12:15 (UTC)[返信]

Tosakaさん、初めまして。連日お疲れ様です。ムカリとジェベについてですが、これらはモンゴル帝国について語る上で最重要の人物たちであり、本来ならば自分のような専門に近い人間が率先して項目立てをせねばならないところです。しかし「重要だけどまだ書かれていない項目」が多く存在するのに、「初版を書く」という事がどうにもいまだに勇気が要るせいか執筆に及び腰になりがちでして、他の編集者の方々にも何かと苦労をお掛けしているものと忸怩するばかりです(汗
初版を投稿されたドルチェットさんの編集の時点では、自分にもいささか小説関係かゲーム関係の記事を参考にして書かれたような印象がありまして、項目立てをされたのに気付きました時、これはいづれ手を入れる必要があるなと思っておりました。それで、Tosakaさんがタグを貼られたのを機会に、削除依頼に出されない程度の応急処置的な編集を行いました。このため、ムカリについてはムカリ#生涯1196年以降の部分が、ジェベについてもジェベ#生涯全文以降の文章は未検証状態でして、特にそれぞれの「人物・逸話」部分は個人的にも内容的に疑問に思われる点がいくつかありますので、各々の節は全面改訂の必要があります。
> 信頼出来ない点がございましたら、「要検証」タグを付けるような編集をしていただけましたら
了解致しました。
両項目とも、まだ検証を要する状態にありますので、歴史関係のスタブなどに張り替えておきたいと思います。歴史関係の項目では、資料や研究文献よりも現代の小説やゲーム関係に影響された文章の目立つ編集がされる場合もやはり少なからずあるようでして、遺憾なことではありますがTosakaさんのご懸念は至極もっともなところです(汗 専門が違いますと余程疑わしいものでない限りは、どうしても「要出典」「要検証」などのテンプレートなどは個人的にはなかなか貼りにくい部分がありますので、Tosakaさんのように「これはおかしいぞ」と思われる文章を見付けられましたら、ご自身の専門とされる分野に関わらず今後も積極的に編集をされますよう、こちらからもよろしくお願い致します。--Haydar 2008年6月12日 (木) 13:49 (UTC)[返信]

ハーンとカンについて

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どうもご無沙汰しております。らりたです。ノート:チンギス・ハーンで私が提案していたチンギス・ハーンからカンへの移動に付いてご意見をいただいてそのまま放置してしまっていたことをお詫びに参りました。今回のことは完全に忘却しておりました。真に申し訳ありません。
改めて他の方の意見を募るつもりです。もしよろしければ議論にご参加いただければ幸いです。そのようなことを頼める立場ではありませんが・・・。
もう一度、繰り返しになりますが、申し訳ありませんでした。--らりた 2008年9月8日 (月) 09:06 (UTC)[返信]

連日お疲れ様です。いえいえ、こちらこそらりたさんが改名提案を出されてから三ヶ月近くも経ってからやっとコメントした口ですし、自分で議論を膨らませたにも関わらず、自分もコメントが続かないままでしたのでしばらくして放置して仕舞いました。その後もコメント依頼を出すでもなくらりたさんにご相談するでもなく、ノートの部分にも何ら手を付けていませんでしたので、ご提案の件についての議論が放置状態になった原因は自分にもかなりあるやに思い、恐縮です(汗
ご用件について了解致しました。取急ぎノート:チンギス・ハーンの方でもコメントを付けたいと思います。Haydar 2008年9月8日 (月) 16:02 (UTC)[返信]

記事名の変更について

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コピーペーストによる記事名の変更は履歴が保存されないなどの理由で認められていません。記事名を変更したいならHelp:ページの移動に則るようお願いします。--Kansai explorer 2008年10月5日 (日) 20:24 (UTC)[返信]

記事名変更のマニュアルが改定されいることを見落としていました。お手数をお掛けしてもうしわけありません。当該記事の変更については移動依頼に掛ける等して対処したいと思います。--Haydar 2008年10月5日 (日) 20:35 (UTC)[返信]

八幡愚童訓査読関連

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査読依頼のテンプレートを添付。--Haydar 2008年7月16日 (水) 21:18 (UTC)[返信]

査読依頼は2ヶ月なので2008年9月16日 (水) 21:09 (UTC)迄です。よろしくお願いします。(このコメントは移動・削除等していただいてかまいません)--ZERO 2008年10月10日 (金) 05:35 (UTC)[返信]
お返事がありませんでしたので、Wikipedia:査読依頼/掲載が終了した依頼への移動だけはやっておきました。お気づきになりましたら「掲載期間終了時の手順」に従い適切な編集をお願いいたします。(このコメントは移動・削除等していただいてかまいません)--ZERO 2008年11月1日 (土) 17:32 (UTC)[返信]

2ヶ月近くコメントが遅れて失礼しました(汗 依頼終了の手続きを色々済ませて頂きありがとうございました。一応Wikipedia:査読依頼#掲載期間終了時の手順に従ってノート:八幡愚童訓にテンプレートを貼る等してみました。また依頼告知記事も下の方へ移動します。改めてありがとうございました。--Haydar 2008年11月23日 (日) 23:52 (UTC)[返信]

ご無沙汰しています。

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ご無沙汰しています。さて、英語版のように、記事のクロスマッピングを日本語版でも行おうということで、PJ:SLMが先行して行っています。現在、Wikipedia:ウィキプロジェクト_イスラーム/執筆支援において、3回目のクロスマッピング作業を実施しています。お手すきなときに、ご参加ください。--Tantal 2010年1月16日 (土) 00:25 (UTC)[返信]

イスラム科学者の編集について

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利用者:Haydar:こんにちは。Damaavandと申します。Haydarさんは「ビールーニーの著作は多くがアラビア語で書かれている」といった理由でアラビア文字表記に変更なさったようですが[1][2][3](他)、その編集内容にいささか問題があります。ラテン語で著作を著していた大勢の作者達が(ヨハネス・ケプラールネ・デカルトフランシス・ベーコンマルティン・ルターオッカムのウィリアムトマス・モアアイザック・ニュートン。。。)イタリア人ではありません。これら著名人の名前はウィキペディアに於いて、彼らの母国語で表記されています。それがウィキペディアでの方法です。僕もそうしています[4][5][6][7]。ラテン語もアラビア語もかつての標準語でしたが、著者の国籍をその言葉で表示する必要はありません。もし日本史に関する記事を英語側のウィキペディアに書こうとすると、次のように書いてはなりません「The Kofun period (Chinese:古坟時代, Japanese: 古墳時代)。「古墳時代」の中国語表記「Chinese:古坟時代」は必要ないですね。サーサーン朝も同じです。英語側だけではなく、他のウィキペディアの言語版にもイブン=スィーナーはペルシア語で表記されています。さらに、Haydarさんのお書きになった「ペルシア語:ابو علي الحسين ابن عبد اللّه ابن سينا البخاري 」はペルシア語ではありません。「ي」 を入れますと、ペルシア語ではなくなります。私は合意形成のためにできるだけアラビア表記を残しましたが、他の利用者たちのコメントを依頼してもよいと考えています。私はその結果に従います。ご理解いただけますよう御願い申し上げます。 --Damaavand 2010年11月1日 (月) 04:22 (UTC)[返信]

Haydarです。お返事が遅れて失礼致しました。
さて、Damaavandさんのご意見を拝読致しましたが、近年のイスラーム研究やイランなどの地域の中世研究などで見られるものと、いくつか認識のずれのようなものを感じましたので、やや散漫ではありますが、拝読して感じた事をあれこれ挙げて行きたいと思います。
まず、言語的な問題についてですが、言うまでもなく、ペルシア語は時代的に別けて、古代語としては古代ペルシア帝国(ハカーマニシュ朝)時代の「古代ペルシア語」があり、中期語としては主にサーサーン朝時代に使われた「中期ペルシア語」もしくは「パフラヴィー語」と呼ばれる段階があり、そしてアラビア文字で表記されるようになる9〜10世紀以降に登場する「近世ペルシア語」がおのおののあります。
予めお断りしておく必要があるかと思いますが、私が「ペルシア語」と言った場合は、所謂「沈黙の二世紀」ののちに9〜10世紀以降に登場し、現在もイランを中心に使われているこの三番目の「近世ペルシア語」の意味で使っておりまして、(「近世ペルシア語」は登場から現在まで1000年程のスパンがありますが)例えばビールーニーなどの場合であれば彼が存命していた11世紀あたりや、少なくとも前近代までに「実際に文献上に現われている・使われていた表記」を念頭に置いています。可能な限り同時代性高い表記、少なくともその当該の人物が生きていた時代や彼らの言動を直接見聞き出来た世代やそれに近い世代などの資料(の写本や現行刊本)に現われている表記を重視しているつもりです。これはアラビア語においても然りで「実際に文献的に出て来る表記」になるようなるべく心掛けているつもりです。


>ラテン語で著作を著していた大勢の作者達が(ヨハネス・ケプラー、ルネ・デカルト、フランシス・ベーコン、マルティン・ルター、オッカムのウィリアム、トマス・モア、アイザック・ニュートン。。。)イタリア人ではありません
今一つ言わんとしておられる事の意味合いを把握しかねておりますが、現行のヨハネス・ケプラーオッカムのウィリアムなどは、現在、項目の定義部分の個人名称の多言語表記では彼らが生きていた地域の現在の(主要な)言語の表記、つまり現行の英語の表記で書かれているようですね。これ事態は特別問題はないと思います。しかし、(自分の好みの問題としては、)彼らが基本的にラテン語の著作をメインとして著述を行っていたのであれば、人名のラテン語表記もあって良いと考えます。勿論、実際に彼らの著作など同時代史料に出て来る表記で、ですが。(現在はラテン語表記は無いようですが)
さて、次に地域概念についてですが、Damaavandさんは「ペルシア」という語彙を地域概念としてメインに使われているやに感じられるのですが、近年のイスラーム地域研究などやイラン関係の研究の傾向からしますと、地域概念としての「ペルシア」という語彙は、少なくとも7、8世紀以降から近現代至るまでの歴史的事象に関しては使われない傾向にあります。アムダリヤ川以西のイラン高原周辺、アルメニアやグルジア辺りやアナトリア、イラクまでを境とする地域をおおよそ「イラン」「イラン高原」などと表現している場合が多いようです。またアラル海南部のホラズム地方 خوارزم Khwārazm/Khwārizm は「ホラズム」とカナ表記され、スィルダリヤ川からアムダリヤ川までのブハラやサマルカンドなどを中心とするかつてのソグド、ソグディアナがあった地域は前近代のことであればアラビア語の呼称であった「マーワラーアンナフル」( ما وراء النهر Mā warā' al-Nahr)などと呼ぶのが通例となっています。たまにアラビア語やペルシア語の古典文献の翻訳などで地域概念として「ペルシア」などが単語が使われる場合がありますが、おおよそアラビア語で「アラブ」( عرب `arab)に対する「異国」「外国」の意味に相当する「アジャム」( عجم `ajam)の訳語として(文脈上から判断し)「ペルシア」と表記し使われる場合が多いように思われます。これら「マーワラーアンナフル」や「ホラズム」を包括する地域概念として「中央アジア」という言い方もままありますが、その場合もアムダリヤ川以西のイラン高原周辺の地域は除外される傾向にあるように感じられます。
かつては日本の戦後の文献でも、イラン高原周辺地域(これも大分便宜的な言い方ではありますが)もホラズム、マーワラーアンナフル地方もひっくるめて「ペルシア」などの呼称が使われていたりしていましたが、近年ではイブン・ハウカルやイスタフリー、あるいは『世界境域誌』( حدود العالم Hudūd al-`Ālam)などのアラビア語や近世ペルシア語の古典的な地理書などの情報が周知されるようになり、少なくとも前近代の事象についてはこれらの古典的な地理概念を尊重する傾向にあります。
これら古典的な地理学の概念からすると、イラン高原やホラズム、マーワラーアンアフルはそれぞれ別個の地域と見なされていたため、近年では「ペルシア」という呼称で一括りにすることの不適当さが認識されるようになったことが、少なくともここ20年程のこの手の論文や著書で何度か聞かれていますし、その辺の問題は羽田正先生が先年出された著書『イスラーム世界の創造』のアラビア語・ペルシア語の地理書のくだりでも説明されていたように記憶しています。
そもそも「ペルシア」という地域的呼称はペルシアの項目でも書かれている通り、ギリシア人やローマ人が古代ペルシア帝国の領域やその本拠地パールサ地方(現在のイランのファールス州)を指すのに使い、漠然とイラン高原周辺などの彼らから見て「東方」を指す呼称・他称のひとつとして使われてきた単語であり、実際のイスラーム時代でのこれらの地域で使われていた呼称とのギャップから、現在の日本の学術分野では使われなくなっている呼称です。
それらも踏まえて、「母国語」という概念を使われているのもやはり問題があります。例えば、ビールーニーはかつてのアラル海南岸のホラズム地方の首府カース Kath 近郊出身と伝えられているようですし、イブン・スィーナーもブハラ近郊の出身であり、イラン高原を中心とすると思われる「ペルシア」地域の出身ではありません。現在の国家の区分で言いましたら、ビールーニーもイブン・スィーナーもウズベキスタンのある地域になるので「ウズベキスタン人」になってしまいますが、彼らは現在ウズベキスタンの多数派言語であるテュルク語の一派、ウズベク語の話者では勿論ありませんでした。
特に(これは黒柳恒男先生が説明しておられるようですが)ビールーニーの場合は厳密には母語は恐らくペルシア語ではなくて、ペルシア語などと近縁のイラン語の一派であるホラズム語だったろうと言われているようです。もはや現在ではホラズム語は死滅しただろうと言われているようですので、現代を基準にした「母国語」と言える物が彼には既に消失したとも言えます。こういったことは別にビールーニーなどに限った事ではありませんで、その人物の幼少から一般生活で使うような生来の言語を指す場合、現在では「母語」などと表現し、あるいは「なになに語話者」などとも言う言い方がされる傾向にあるかと思います。この問題は歴史学だけでなく言語学や国際関係の学問分野で広く生じている問題でもあるので、これらの分野では「母国語」という表現はされなくないっていると聞き及んでいます。
さて次に、
>「「The Kofun period (Chinese:古坟時代, Japanese: 古墳時代)。「古墳時代」の中国語表記「Chinese:古坟時代」は必要ないですね。サーサーン朝も同じです。
これも今一つ仰りたい意味が分かりません。古墳時代というのは勉めて日本における考古学的な時代区分です。「中国語表記」とおっしゃいますが、字を見ても分かる通り、これは現在の中華人民共和国で使われている「簡体字」であって、台湾や香港などで使われているいわゆる繁体字ではありません。呼称的な表現として「漢語」もありますがおおよその場合は日本であれば常用漢字ですが、「繁体字」で書いた方が分かりやすいと言う面もあるようではありますが・・。加えて、飽くまで日本の考古学上の時代区分であり中国での考古学的な時代区分でもない概念をわざわざ定義部分のところで「The Kofun period (Chinese:古坟時代, Japanese: 古墳時代)などと日本語表記よりも前に置くことなど英語版であり得るのでしょうか? これを用例としてどういうことを仰りたいのかいまひとつ理解出来ません。それと「サーサーン朝も同じです。」という一文がどう繋がるのかもいささか良く分かりません。
「ي」 を入れますと、ペルシア語ではなくなります。
とのことですが、ご意見はいささか歴史的な言語展開からすると、了見の狭めなご意見かと思われます。
占星術教程の書
画像はビールーニーの項目にもある彼の主著のひとつ、『占星術教程の書』(Kitāb al-tafhīm li-awā'il ṣinā`at al-tanjīm)の古いペルシア語版の月の満ち欠けについての原理を説明している図ですが、最後の行の كه ke以下の部分、 īshān rā rawshanā'ī az khvīshtan ast とあり、 روشنااي rawshanā'ī の単語末の ي ī は所謂アリフ・マクスーラの ى ではなくて、点があることからも分かる通り、 ي ī の表記方法のひとつであってこれは通常の現代のペルシア語の正書法に従えばに روشنااى rawshanā'īなります。(自分が参照したジャラールッディーン・フマーイーという人が校訂したペルシア語版刊本では、 ورشنائى rawshanā'īと表記してしますが) そのため、単語末に ي īがあるからといって「ペルシア語でなくなる」というご意見は、実際の歴史的な表記からすると現実にはあり得ないものと言えましょう。(同じ行の最初のrawshanā'īは ى っぽく見えますが、図の下方が欠けているので ى か ي かはこれを見ただけではにわかに分かりませんが)
他にも2、3付け加えるべきことがございましたが、ひとまずの意見として投稿しました。後日もう少し付け加えたいと思います。--Haydar 2010年11月7日 (日) 19:13 (UTC)[返信]
Haydarさん、こんにちは。

ご丁寧なお返事をありがとうございます。 じっくりと読ませていただきましたが、Haydarさんの知見の深さに感心しております。ですが、いくつかの点で意見の相違があるようなので、以下に短くですが、述べさせていただきたいと思います。

①  >ペルシア語は時代的に別けて、古代語としては古代ペルシア帝国(ハカーマニシュ朝)時代の「古代ペルシア語」があり、中期語としては主にサーサーン朝時代に使われた「中期ペルシア語」もしくは「パフラヴィー語」と呼ばれる段階があり、そしてアラビア文字で表記される。。。


ペルシャ語が、古代から中世、近世にかけて変遷してきている事は当然のことです。ビールーニーは近世ペルシャ語を使用していますが、現在、公式に認められているペルシャ語では ي と ك と ة の表記は認められていません(右記のページ(ペルシャアカデミー)「[8]」をご参照ください)。近世ペルシャ語の中でのマイナーチェンジがなされているわけで、現在のペルシア語ではそのような字は正しくありません。もし、古代の人物等を表記する場合でも、ウィキペディアでは現代のペルシャ語で表記しています。ウィキペディアで認められている表記方法で表記すべきです。

② >この問題は歴史学だけでなく言語学や国際関係の学問分野で広く生じている問題でもあるので、これらの分野では「母国語」という表現はされなくないっていると聞き及んでいます。


「母国語」という表現を使ったことに異議があるようですが、母国語でしょうが、生まれた国の言葉でしょうが、現在のウィキペディアでの表記方法に従う事が第一です。ウズベキスタン語でビールーニーとイブン・スィーナーの名前を表記しても構いませんが、他の言語版のページではペルシャ語表記しかされていません。言語学や国際関係の学問分野で広く生じている問題であるからこそウィキペディアのルール独自研究は載せないに則って他の言語版ページと同じ書き方をするべきです。

因みに、ビールーニーとイブン・スィーナーの二人は、当時、他の言語の著作物をペルシャ語に翻訳する活動(جنبش ترجمه)を復活させた人物です。


③ ペルシアと書きますと単なる地図上の場所ではありません。ペルシャ文化遺産に対するいろいろな動きがあります。04年に「ナショナル・ジオグラフィック協会」の「ペルシャ湾」インシデントもありましたね。実際に政治的な動機に基づくものとかお金で動くものもありますから、特に研究者は注意しなければなりません。


④ >飽くまで日本の考古学上の時代区分であり中国での考古学的な時代区分でもない概念をわざわざ定義部分のところで「The Kofun period (Chinese:古坟時代, Japanese: 古墳時代)などと日本語表記よりも前に置くことなど英語版であり得るのでしょうか? 


あり得ないですよね。ですから、サーサーン朝の日本語版ページにアラビア語表記は必要ないです(Hayderさんの編集ですが)[9]。余談ですが、中国語版のウィキペディアに日本の古墳時代がこの古坟時代[10]で書かれています。繁体字でしょうが簡体字でしょうが、ここではただの喩えとして述べたのであって、ご理解いただけなかったことは非常に残念に思います。

⑤ >:画像はビールーニーの項目にもある彼の主著のひとつ、『占星術教程の書』(Kitāb al-tafhīm li-awā'il ṣinā`at al-tanjīm)の古いペルシア語版の月の満ち欠けについての原理を説明している図ですが、最後の行の كه ke以下の部分、 īshān rā rawshanā'ī az khvīshtan ast とあり、 روشنااي rawshanā'ī の単語末の ي ī は所謂アリフ・マクスーラの ى ではなくて、点があることからも分かる通り、 ي ī の表記方法のひとつであってこれは通常の現代のペルシア語の正書法に従えばに روشنااى rawshanā'īなります。

التَّفهیم の『占星術教程の書』に書いてある文章を現在のペルシア語にするとこうなります:«چرا این فزودن و کاستن نور مقرر است و ستارگان دیگر را نیست؟ میان مردمان نگرستن و ناستادن این معنی‌ها را خلافست. در روشنایی ستارگان که ایشان را روشنایی از خویشتن است» 『占星術教程の書』では、≪その1≫ د を ذ (as in ناستذن) ≪その2≫ گ を ک (as in دیکر and ستارکان)≪その3≫ ش を س as in خویستن ≪その4≫ چ を ج (as in جرا) と書いています。1000年経っているので、書き方が変わっています。現在のペルシャ語では古い書き方を使いません。

長くなりましたので、この辺りで取り急ぎ、返信させて頂きます。Damaavand 2010年11月15日 (月) 11:30 (UTC)[返信]

Wikipedia:季節の画像投票所に ファイル:Supplicating Pilgrim at Masjid Al Haram. Mecca, Saudi Arabia.jpgを推薦しました。

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こんにちは、そしてはじめましてUltratomioです。本日、ファイル:Supplicating_Pilgrim_at_Masjid_Al_Haram._Mecca,_Saudi_Arabia.jpgを、Wikipedia:季節の画像投票所2012年10月に推薦いたしました。推薦理由はPortal‐ノート:イスラームに投稿済みです。投票先はWikipedia:季節の画像投票所#2012年10月の候補画像にてお願い致します。 (プロジェクト:イスラームの参加メンバーに送っています)--Ultratomio会話2012年4月9日 (月) 04:11 (UTC)[返信]

ウイグルの記事内容について

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こんにちは。トムルと申します。

現在、ウイグルの記事内容について、とあるIP氏と意見の対立が生じております(ノート:ウイグル)。Wikipedia:コメント依頼には出しているのですが、ウイグルの記事に加筆していただいたことのあるHaydar氏にぜひとも意見を仰ぎたいと思いました。お忙しいところ申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします。--トムル会話2012年5月6日 (日) 05:40 (UTC)[返信]

Haydarです。長らくお返事もせずに大変失礼致しました(汗 去年の春から急に忙しくしていたためwikipediaの編集が殆ど出来ませんで、夏にはPCが故障したのもあってIDやパスワードも忘れてしまったためwikiをユーザーページから見る事も出来なくなってしまい、そうこうするうちに議論に全く参加出来ませんでした。今年も編集に参加出来るか怪しいため、時間が出来るようであれば何かしらご助力機会もあればと思います、重ねてお詫びします(汗 --Haydar会話2013年1月13日 (日) 16:37 (UTC)[返信]
こんばんは。夜半まで加筆や編集、お疲れ様です。そして初めまして。ファリード・アド=ディーン・アッタールの初版作成者のじぶろと申します。
この度は、ファリードゥッディーン・アッタールの加筆、ありがとうございます。
私は百科事典を参考文献としかしておらず、「とりあえず埋めとけ」って感じな思想なので、今回の加筆は驚愕しました。本当にありがとうございます。
あと、ペルシア語にお詳しいということなので、お聞きしたいのですが、en:Awhadi Maraghaiの記事を作りたいです。しかし、この記事をどういう風に名前を訳せばいいか分からず…。手持ちの百科事典には「アウハディー」としかなく、Maraghaiがなんて読むのかすら分かりません。もしよろしければ教えていただけないでしょうか?--じぶろ会話2013年1月13日 (日) 16:22 (UTC)[返信]
Haydarです、こちらこそ初めまして。アッタールの初版はじめ編集お疲れ様です。
wikipediaの編集に携わって何年かになりますが、あれこれ気を回してなかなか手を付けられ性分ゆえか、どうにも初版を自分で率先して書き付けるというのが今だに荷が重く感じてしまいます。じぶろさんのように簡略でもあたりをつけて初版をどんどん果敢に書かれる編集者の方達は大変羨ましく思っております(^^; アッタールの項目の編集は黒柳恒男先生の訳書の内容をほぼ丸写しにした感じですが(汗 普段からアラビア文字転写などの細かい点は手許の資料があればそれを使いますが大抵は英語版や、イスラーム百科事典イラン百科事典のサイト、大学図書館の書誌情報などを見ながら書いています。「とりあえず埋めとけ」と思ってもそれをちゃんと実行するというのはそれはそれでとても良い事だと思います(^^
 さて、en:Awhadi Maraghaiについてですが、自分も黒柳恒男先生の『ペルシア文芸思潮』(1977年)や『ペルシアの詩人たち』(1980年)で何度か名前を目にしたような気がする程度でして、詳しい来歴は存じません。しかし、英語版もですがアラビア語版やペルシア語版で詩集 Jām-i Jam の作者だと説明がありますので、その特徴的な名前ゆえ書名だけは憶えています。英語版とかで多分書かれてあると思いますが、イルハン朝時代に活躍した結構有名な詩人だったはずです。人名の要素ですが、アラビア語版に أوحدي المراغي  とあってこれを素直に読めば Awḥadī al-Marāghī なってアウハディー・アル=マラーギーとなります。定冠詞の al- はペルシア語の文献や日本語表記でも省かれることもありますので、これを項目名の基準にするならば「アウハディー・マラーギー(Awḥadī Marāghī )」で良いと思います。
「アウハディー」も「マラーギー」もどちらもイスラム教徒の、といいますかアラビア語による人名を作る時の構成要素としては出身名(ニスバ)になりますが、「アウハディー」の方はアラビア語版の説明などを見ますと、彼がイルハン朝前半のアルグンの時代に仕えた詩人アウハドゥッディーン・キルマーニー أوحد الدين الكرماني Awḥad al-Dīn al-Kirmānī en:Auhaduddin Kermaniの弟子だったため、師匠の尊号(ラカブ)である「アウハドゥッディーン」 أوحد الدين Awḥad al-Dīn の「アウハド」 أوحد Awḥad にちなんだニスバのようですね。
「マラーギー」( المراغي al-Marāghī)の方は彼が現在のイラン北西部の東アーザルバーイジャーン州のマラーガ(マラーゲ) مراغه‌ Marāgha/Marāghe en:Maraghehで誕生した事に由来しているため、こちらはアッタールの例にならえばニーシャープール(Nīshāpūr)出身であるためにファリードゥッディーン・アッタール・ニーシャープーリーとあってニスバが「ニーシャープーリー(Nīshāpūrī/al-Nīshābūrī/al-Naysābūrī)」となり、ナスィールッディーン・トゥースィーならばマシュハド近くのトゥース(Ṭūs)の出身であるためニスバも「トゥースィー(Ṭūsī/al-Ṭūsī)」となるのと同じです。
 それで、英語版 en:Awhadi Maraghai のほうで Maraghai となっている理由ですが、恐らくこれはペルシア語版で اوحدی مراغه‌ای とあるのに関係していて、古典的な読み方にならえば「アウハディー・マラーイー」 Awḥadī Marāgha'ī とかになるはずで、現代ペルシア語読みであれば「オウハディー・マラーゲイー」 Ouḥadī Marāghe'ī とかに読まれるはずです。古典的な人名で出身地の地名の単語末が開音節の場合、語末の母音は省略されてそのままニスバの -ī が付くのがメジャーだと思うんですが(例えば10世紀に活躍した有名なハディース学者のアブー・ターリブ・マッキーen:Abu Talib al-Makkiメッカ(al-Makka)出身だったので「マッキー」al-Makkī)、今回のアウハディー以外にもマラーガ出身の著名人は何人か歴史上いるはずで、彼らもたいていは「マラーギー(al-Marāghī)」と呼ばれていたと思うんですが、アゼルバイジャン語版でも Əvhədi Marağayi となており「マラーイー」系のようです。イラン百科事典のサイトで検索してみたところ、"AWḤADĪ MARĀḠAʾĪ" となっていましたので [11] 、どうやら現在では「マラーイー」系で読ませるのが主流のようです。これはもうアウハディーの著作の刊本なりを見るなどして、アウハディー自身が自分を指すとき مراغه‌ای Marāgha'ī いう綴りを実際に使用しているのか確認しないと自分では判断出来そうにありません(汗 一応、アッタールのところで出てきたナフィースィーがアウハディーの主著『ジャーミ・ジャム』などを校訂しているようですので、今度ちょっと確認しておきたいと思います。(イラン百科事典の説明ですと、アウハディーは Awḥadī Iṣfahānī とも呼ばれていたようですが、これは彼の父親がイスファハーン出身で、一時期アウハディー自身もイスファハーンで生活していたことに由来しているようです)
 いささか冗長になってしまい申し訳ありませんが、ご参考にできましたら幸いです(^^;  --Haydar会話) 2013年1月13日 (日) 19:18 (UTC) 綴りがちょっと分かりづらかったので追加。--Haydar会話2013年1月13日 (日) 19:26 (UTC)[返信]
こんにちは。詳らかなご説明、ありがとうございます。
イスラーム百科事典イラン百科事典という便利なサイトがあるんですね。自分は百科事典を見て記事作成に当たっているだけでその人の生涯や著作物が掲載されていないと「とりあえず作っておこう…」と手を抜いてしまうので、1記事を極める方にとってはほとんど対立しているようなもので…。ともかく、ご説明ありがとうございます!
詰まるところ「アウハディー・マラーギー」ですか。しかし、ペルシアの人やアラビアの人の名前はたいそう面倒臭いのですね…。
自分もまだ記事作成に自信が無いので、アウハディー・マラーギーの記事の作成は保留とします…。もし、作成して間違えている部分がありましたら、存分に修正、加筆して構いませんので、宜しくお願いします。
今回は、ありがとうございました(^o^)--じぶろ会話2013年1月14日 (月) 08:20 (UTC)[返信]
こんばんは。すみません、ちょっとわけの分からない衝動でアウハディー・マラーギーのWikipedia作ってしまいました!!
一応のご報告です。Haydarさんの助言を得て、適当(?)ですが記事が作成できました。本当にありがとうございます。--じぶろ会話2013年1月14日 (月) 15:04 (UTC)[返信]
じぶろさん 返信が大分遅れてしまい失礼致しました(汗 アウハディー・マラーギーの立項お疲れ様です。時間を見てちょこちょこと調べていた内容がある程度貯まったので加筆させて頂きました。アウハディーの名前についての続報になりますが、アウハディー作品の刊本としては恐らく一番メジャーと思われる半世紀前のSaʿīd Nafīsīという人が出した校訂本を確認したのですが、‌اوحدی مراغی‎ としか書かれておらず、特に注意を引くような発音記号は全然ありませんで Awḥadī Marāghī としか読めませんでした。15世紀末の詩人Dawlatshāh Samarqandī の『詩人伝』(Tadhkirat al-Shuʿarāʾ,)という作品がありましてここにアウハディーの伝記も載せられているのですが、Nafīsī の校訂本の2年程前に Muḥammad Ramaz̤ānī という人がやはり校訂本を出しておりまして、そこでも本文に اوحدی مراغی‎ と書かれているのですが、特にこれといって発音記号が付されている訳でもないので Awḥadī Marāghī としか読みようがありませんでした。黒柳恒男先生の本を確認するのをまた忘れてしまったのですが、一応主要な校訂本で Awḥadī Marāghī としか読みようが無いようですので、立項されたとおり「アウハディー・マラーギー」表記でまったく問題なく思われますのでその旨お伝え致します(^^; --Haydar会話2013年3月25日 (月) 18:18 (UTC)[返信]
こんにちは。お久し振りです。いえいえ、私が勝手に記事を立項してそれをここに書き込んだだけですのでお返事はいつでも大丈夫でした。
先程、アウハディー・マラーギーの記事を確認してきました。わざわざ下調べして下さって、しかも英語版のアウハディー・マラーギーの記事より充実した記事にして下さって、感謝の限りです。
その後もご丁寧に記事名を調べて下さってありがとうございます。正直私の持つ百科事典は古い百科事典なので項目名が間違っているのではないかと不安でしたが、あっていて良かったです。
日本では紙の百科事典などでしか評価されていないのでこうしてHaydarさんが加筆して下さって記事が成長するのはとても気持ちが良いし、嬉しいです。
今回は、ありがとうございました!--じぶろ会話2013年3月26日 (火) 03:48 (UTC)[返信]
こちらこそお返事ありがとうございます&お久しぶりです〜 自分も英語版と同じEncyclopædia IranicaのKhaleghi-Motlaghという人が書いた記事を参考にしたんですが(今確認して気が付きましたw)、これが頁の半分くらいの量しかなかったのでそんなに書き足す内容もないかなあと思っていたんですが、つい2年くらい前に出たEncyclopedia of Islām 第3版のLeonard Lewishonという人が書いた記事はまるまる4頁くらいあって多分 Khaleghi-Motlagh氏の軽く3、4倍くらいはありそうな結構な分量だったので、それを利用して校訂本の校訂者の解説をつまみ食い出来たのでなんとかなった感じでした(w 英語版みたいに原文中の韻文をいくつか抜き出してさらっと翻訳(とラテン文字転写)が出来れば文学関係の紹介記事としてはベストなんでしょうけども、そこまで語学力は高くないしまして文学的才覚もあるわけではないのでちょっと無理かな〜と(^^;>そういう詩文の英訳でもあればまた下手なりになんとかなるのかも知れませんが ひとまずはこんな感じで増補出来そうだったり他の記事に応用出来ればと思いますが、お褒めに与って恐縮な限りでともかくもお役に立てたようで何よりです(^^ --Haydar会話2013年3月26日 (火) 21:48 (UTC)[返信]

天山ウイグル王国について

[編集]

こんにちは。天山ウイグル王国の内容で疑問点があったので、ノート:天山ウイグル王国で質問させて頂きました。お忙しいとは思いますが、ご確認をお願いします。--119.83.111.72 2013年12月5日 (木) 02:34 (UTC)[返信]

返信が遅れて大変失礼致しました(汗 当該ページにて改めてお返事致したいと思います。 --Haydar会話2013年12月12日 (木) 18:40 (UTC)[返信]
あなたは天山ウイグル王国の内容について放置した上、フレグに関するこの編集[12]]で仕返しと思われる行為をされています。そもそも、転写(文字表記)と発音は異なるので、発音記号があるのです。転写は発音を表していないので、発音を理由に転写を否定するのは全く論理的行動ではありません。wikipedia:個人攻撃はしないに違反していますが、どういうおつもりなのでしょうか?ご説明頂けますか?--119.83.111.72 2013年12月27日 (金) 13:33 (UTC)[返信]
119.83.111.72さん Haydarです。たびたび返信が遅れて申し訳ありません。天山ウイグル王国についてはまだ諸事情により検証作業に着手出来ておらずしばらく放置せざるを得ない状況にあります。ご不満の件はごもっともなところでして、これについてはご寛恕願う次第です(汗 もうしばらくお待ち頂きたいとは思いますが、もし待ち難いようでありましたら、本文訂正や脚注の挿入等々のご裁量は119.83.111.72さんにお任せ致したく思います。
 さて、フレグの冒頭の表記についてのご指摘ですが、編集部分については119.83.111.72さんのご指摘を今程確認するまで119.83.111.72さんの編集とは全く認識しておらず、wikipedia:個人攻撃はしないとの非難については全くの誤解でありまして、いささか困惑しております。修正などの具体的な編集作業は年明けにするつもりでしたので、その場では差し戻しのみにとどめただけだったのですが、ご不快に感じられたのであれば陳謝申し上げます。
 ただ、これだけは申し述べておきたいのですが、残念ながら自分が見て来た範囲でのフレグモンゴル文字ウイグル文字)表記からすると、現行の「モンゴル語: ᠬᠦᠯᠡᠭᠦ 転写: qüleγü」という表記は、13-14世紀のモンゴル文字ウイグル文字)による中期モンゴル語表記や正書法とは合致しておらず、この表記を記事本文上に掲載し続けるには119.83.111.72さんがどういった文献的根拠によってこの表記を採用されたのはご説明して頂かねばなりません。
これはモンゴル文字、というよりもモンゴル帝国時代のの中期モンゴル語のウイグル文字表記についての問題ではありますが、当時はウイグル文字によって中期モンゴル語を表記する場合、当時の中期モンゴル語が持っていた(らしい)/h/ の音価をウイグル文字では文字上で表現出来ず、/h/音を表記するためには(ウイグル文字というよりもその祖先のアラム文字で言えば)アレフ (')やアレフにヴァーヴ(w)やヨッド(y)を使って表記せざるを得ず、/h/音に付加される母音でいわゆる7種の男性母音、中性母音、女性母音(/ha/, /ho/, /hu/, /hi/, /he/, /hö/, /hü/)も日本語で言えばア行にあたる表記(/a/, /o/, /u/, /i/, /e/, /ö/, /ü/)とは、ウイグル文字上では見かけ上区別が出来ませんでした。
 中期モンゴル語の表記問題については、斎藤純男『中期モンゴル語の文字と音声』(松香堂書店、2003年2月)で著者の斎藤純男先生が包括的に論じておられますし、三省堂から出ています『言語学大辞典』の「別巻 世界文字辞典」の「ウイグル文字」「モンゴル文字」「パスパ文字」等でもこの問題は触れられておりまして、ネット上では中村雅之「中期モンゴル語の/h/について」 (『KOTONOHA』第97号 古代文字資料館発行、2010年12月). http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf7/nakamura97.pdf 、中村雅之「中期モンゴル語の/h/と/q/について」(『KOTONOHA』第110号 古代文字資料館発行、2012年1月)http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf8/nakamura110.pdf がこの問題が扱っており読む事が出来ます。
 
当時のウイグル文字(モンゴル文字)表記の綴りをラテン文字アルファベットに置き換えた感じでこれらを表現すると、
/ha/も/a/も語頭形では ' + ' でアレフが2つ連続し、語中、語末形では ' とアレフ単体。
/hi/や/i/も語頭形では| ' (アレフ)+ y (ヨッド)、語中形では主に y (ヨッド)単体であり、語末形でも y (ヨッド)単体でした。
/ho/, /hu/, /o/, /u/は語頭形ではいずれも ] ' (アレフ)+w(ヴァヴ)であり、語中形では w(ヴァヴ)単体、語末形でも w(ヴァヴ)単体でした。
/hö/, /hü/,/ö/, /ü/も ' (アレフ)+ w(ヴァヴ)+ y (ヨッド)でしたが、第1音節のみ w(ヴァヴ)+ y (ヨッド)をつくり語中形は基本的に第2音節以下ではであって母音調和による母音の音韻変化は語中、語末形では反映されませんでした。そのため語末形では基本的に w(ヴァヴ)単体でした。
ここまで書きながら中期モンゴル語で単語の語中や語末に/h/音が存在する語彙があるのかは、にわかに記憶にないので何とも言い難いですが、少なくとも語頭に/h/が来る単語は確実に存在しおり、このフレグ と Hülegü と中村雅之氏も中期モンゴル語の/h/と/q/について」で例に挙げている中期モンゴル語でを意味する hüker(パスパ文字モンゴル語表記ではheuker) がその代表と言えます。もっとも中村雅之氏は当該論文で中期モンゴル語ではもはや本来持っていた/h/が既に実際の音韻では消滅し、表記上でしか存在していなかったと論じておられるようです。しかし、少なくともモンゴル帝国時代の漢字表記やパスパ文字表記、(斎藤純男先生も指摘していたと思いますが)『集史』などでのアラビア文字では語頭の /h/ 音を表記しようとしており、今回のフレグのウイグル文字(モンゴル文字)表記やそのラテン文字転写の表記では実際の音韻の消滅よりも実際のその当時の表記こそが問題になるので、それらの実際の表記を記事として反映すべきであると考えます。
 ここまで長々書いてようやく本題に入り恐縮ですが、「モンゴル語: ᠬᠦᠯᠡᠭᠦ 転写: qüleγü」という表記はウイグル文字(モンゴル文字)表記とラテン文字転写双方で問題があります。というのも、このラテン文字表記はこのモンゴル文字表記を一応対応していますが、この表記は実際その当時の中期モンゴル語のアラビア文字表記(転写)とウイグル文字表記などとの互換性に整合しておらず、語末の ü のウイグル文字表記も当時の正書法を反映していない事です。(文字綴りをアルタイ学関係で一般的なラテン文字に置き換えると qwyl'qwy q(コフ)+ w(ヴァヴ)+ y (ヨッド)+ l(ラメド)+ ' (アレフ)+q(コフ)+ w(ヴァヴ)+ y (ヨッド))
自分はフレグのウイグル文字(モンゴル文字)表記での表記は『五族譜(Shu`ab-i Panjgāna)』という『集史』の情報を元に書かれたらしいモンゴル帝国時代前後の系図史料で2カ所(トルイの系図のフォリオとフレグ自身の系図フォリオ)確認したのみで、他にウイグル文字モンゴル語資料で「フレグ」がどう表記されているか知りません。そもそも現存のモンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語やあるいはパスパ文字モンゴル語資料やそれに基づいた資料にフレグが出て来るのかも知らない状況です。(『元史』では本紀や宗室世系表などに勿論記録されていますし、『南村輟耕録』大元宗室世系にも漢字表記が載っているのでその点問題ありません。ただ『アルタン・ハーン伝』や『蒙古源流』に載っているようには憶えがありませんしその他の近代に近い時代の資料にフレグが出て来るのかも微妙です)
『五族譜』ではフレグは ᠣᠯᠡᡗᢦ Hülegü/ ülegü/ 'üle'ü となっていました。(PCの関係で文字綴りがちゃんと合っているか判断出来ませんが、上記の転写方法になおすと、'wl'kw  ' (アレフ)+ w(ヴァヴ)+ l(ラメド)+' (アレフ)+ k(カフ)+ w(ヴァヴ)の順)
 『集史』でのフレグの表記は主に هولاكو Hūlākū であり、イルハン朝時代に書かれた『ワッサーフ史』やムスタイフィー・カズヴィーニーの『選史』なども基本的にこの表記を載せていますが、後の時代の史書では第1音節のワーウ و ū は省かれたりしてしまい、هلاكو Hulākū のような綴りもまま見られるようです。さらに(これは杉山正明先生も指摘されていたと思いますが)ウイグル文字表記に起因するのか اولاوو 'ūlāwū という綴りも『集史』では一部見られるようです。
 参考までに『集史』に近い時代のアラビア文字資料(ペルシア語やアラビア語)での例ですと、アター=マリク・ジュヴァイニーの『世界征服者史』(1260年編纂)ではおおよそ『集史』と同じ هولاكو Hūlākū 、『集史』の要約的な資料でアブー・サイード即位(1317年)までを扱った『バナーカティー史』(Tārīkh-i Banākatī)では『世界征服者史』『集史』同じく هولاكو Hūlākū しているようで、『世界征服者史』とほぼ同じ時期に書かれたジューズジャーニーの『ナースィル史話(Ṭabaqāt-i Nāṣirī)』(1260年)では هلاو Hūlāū になっているようです。一方、『集史』が編纂されたイルハン朝領内のアラビア語資料としてはバル=ヘブラエウス(:en 1226 - 1286年)の『時代史』(Ta'rīkh al-Zamān)と『諸王国史略 (Ta'rīkh muḥtaṣar al-duwal)』の2著作が知られていますが、いずれも『集史』などと同じく هولاكو Hūlākū となっているようです。
 翻って、ウイグル文字モンゴル語による各子音表記の表記法についてのは解説は上記の中期モンゴル語関係の著書や論文などで詳しく触れられていますが、かいつまんで言いますと、中期モンゴル語の /q/, /γ/, /χ/ はウイグル文字の q (コフ)に集約され、/k/, /g/ は k (カフ)に集約されてしまいます。この特徴はウイグル文字による古ウイグル語の正書法がそのまま用いられたものです。(少なくとも語頭の)/h/ 音は ' (アレフ)に集約されてしまい、これは斎藤純男先生もアラビア文字による表記とウイグル文字表記との関連性は色々具体例を挙げて書かれていたと思いますが、それらの結論からすると、 هولاكو Hūlākū などから推測される中期モンゴル語やそのウイグル文字表記は、119.83.111.72さんの書かれたウイグル文字(モンゴル文字)やそのラテン文字転写にはまずなりえない、という事です。実際に上記のようにフレグのウイグル文字表記が残されている『五族譜』の表記と大分異なっているのです。
 中期モンゴル語から近現代のモンゴル語への音韻変化とモンゴル帝国時代のウイグル文字から近代のモンゴル文字表記の正書法への変遷については恐らく中国や日本などの研究者が色々述べているかとは思いますが、少なくとも119.83.111.72さんの採用された表記は、『元史』などの「旭烈兀」や『集史』などの هولاكو Hūlākū と比肩出来るような歴史的根拠のあるものとは(少なくとも上記で長々述べた理由から)同等のものとは自分にはにわかには得心致しかねるところです。もしやすると、表記の音韻上の近似から恐らく近現代のモンゴル語文献での「フレグ」の表記であろうかとも推測しますが、この点はつきましては119.83.111.72さんがこの表記を用いられた文献的な根拠を提示されない事には何とも申し上げ難いところでして、何らかの形でご説明願えればと思います。
 乱筆重ね重ね失礼致しますが、以上119.83.111.72さんのコメントについて思った事を書いた次第です。--Haydar会話) 2014年1月9日 (木) 19:49 (UTC) 誤記の修正。--Haydar会話2014年1月11日 (土) 10:26 (UTC)[返信]
Haydarです。検証についての経過報告になりますが、年末からあまり時間がとれず、手許の資料以外では自分が提示した資料の検索がまだ十全に行えない状況です。が、別の場所で別のIDの方から遠回しに「早く天山ウイグル王国の記事検証をしろ!」とせかされてしまったようなので、まだ2著作しか検証は出来ていませんが中間的に報告を書き残しておきました。『ウイグル=マニ教史〜』の方は所蔵している図書館が今の近在になかなかないので、所蔵図書館にアクセス出来る機会等を見計らって検証を行いたいと思います。--Haydar会話2014年3月25日 (火) 17:09 (UTC)[返信]

イェスゲイの記事名について

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こんにちは。トムルと申します。今、「イェスゲイ」の記事名を「イェスゲイ・バアトル」に改めたいと思うのですが、モンゴル史にお詳しいHaydarさんの意見を聞かせてください。ノート:イェスゲイでお待ちしています。--トムル会話2014年1月19日 (日) 10:53 (UTC)[返信]

トムルさん 返信が遅れて大変失礼致しました(汗 イェスゲイの件了解しました。そちらのノートにて改めて意見を述べさせて頂きたいと思います。 --Haydar会話2014年1月23日 (木) 09:09 (UTC)[返信]
コメントありがとうございました。ついでに個人的な質問ですみませんが、Haydarさんがいつも参照されている『集史』や『世界征服者の歴史』などのイスラム史料はどういったものを参照されているのでしょうか(外国語に翻訳された校訂本でしょうか)。また、中世モンゴル語やモンゴル語の音韻変化について書かれた資料で詳しいものがあれば教えてください。--トムル会話2014年1月23日 (木) 23:56 (UTC)[返信]
トムルさん 
お疲れ様です。あまり参考にならなさそうなコメントになってしまいすみません(^^; 自分が普段扱っているテキストについてのご質問ですが、『集史』や『世界征服者史』の校訂本(のコピー)や英訳本についてはそれぞれの項目で参考文献などでとり上げられているものを使っていまして、あとは参考として東洋文庫のドーソン『モンゴル帝国史』と村上正二訳『モンゴル秘史』(『元朝秘史』)あたりを主に用いています。
 『集史』は1995年前後にイランのモハンメド・ロウシャンとモスタファー・ムーサヴィーが上梓した4冊本の校訂本が「モンゴル史」部分がまとまっていて便利なのでこれを主に用いていますが、半世紀余り前にアゼルバイジャンのアリーザーデが「テュルク・モンゴル諸部族誌」「オゴデイ・カアン紀」「フレグ・ハン紀〜ガザン・ハン紀」の部分を校訂していますがこちらは研究者のあいだでは現在でも校訂本としての質の高さは一番高いと評されていまして、ロウシャン校訂本で微妙な感じだった時はこちらもたまに見ています。英訳としてはロウシャン校訂本を基にアメリカの研究者サクストンが4冊本の本文部分を全訳していますが、訳文としては原文で微妙な表現がされている所はだいたい意訳していたりするので、原文でどういう意味なのか良く分からない時以外はあまり参照していない感じです。他にも20世紀初頭にブロシェットがオゴデイ・カアン紀からテムル・カアン紀まで校訂本をだしていて、その半世紀あまり後に当該部分の英訳を出していまして、こちらもたまに使っています。
集史
・A.A.Али-заде.(アリー・ザーデ)(ed.), Джами'ат-Таварих.Тoм I,Часть 1, Мoсква,1965.
・A.A.Али-заде. (ed.), Джами'ат-Таварих.Тoм II,Часть 1, Мoсква,1980.
・A.A.Али-заде. (ed.), и А. К. Aрендс (tr.), Джами'ат-Таварих.Тoм III, Баку,1957.
・Muḥammad Rawšan & Muṣṭafá Mūsawī(ロウシャンとムーサウィー)(ed.), Jāmi'al-Tawārīkh,4 vols., Tehran, 1373(1994).
・Egar Blochet (ed.), Djami el-Tévarikh /Histoire gènèrale du monde: Tarikh-i moubarek-i ghazani/Histoire des Mongols, Leiden, 1911.
・John A. Boyle (tr.), as The Successors of Genghis Khan, 2 vols., New York, 1971.
・Wheeler M. Thackston (tr.), Rashiduddin Fazlullah’s Jamiʿu’t-tawarikh, A Compendium of Chronicles: A History of the Mongols, 3 vols., Cambridge, Mass., 1998-99.
 『世界征服者史』の校訂本はイランのカズヴィーニーによる3冊本がありますので、専らこれを用いています。原文の難解な部分はボイルによる英訳も評価が高いためやはり使っていますが、東洋文庫版ドーソンの『モンゴル帝国史』にもかなり助けられています。最近、フランス国立図書館(ビブリオテーク・ナショナル)の電子図書館『ガリカ』でカズヴィーニーが底本に使っていた写本のいくつかがネット上で閲覧が可能になっている事を知ったので、この頃はこちらも校訂本とを見比べながら使っている感じですね。
・Mīrzā Muḥammad Qazwīnī (ed.), Taʾríkh-i-jahán-gushá, 3 vols., (Gibb Memorial Series 16), Leiden and London, 1912-37.
・John Andrew Boyle (tr.), The History of the World-Conqueror, 2 vols., Manchester 1958.
 中期モンゴル語やそのウイグル文字表記などについては、上でも書いたように三省堂『言語学大辞典』、斎藤純男先生の『中期モンゴル語の文字と音声』、最近中期モンゴル語関係の論文を多く出している中村雅之さんの論文などを用いていまして、基本的にこれら(と載録されている参考文献)の議論を踏まえた上で書いている…つもりです(^^;
・斎藤純男『中期モンゴル語の文字と音声』(松香堂書店、2003年2月)
・庄垣内正弘「ウイグル文字」『言語学大辞典』「別巻 世界文字辞典」三省堂、2001年7月、118-121頁
・樋口康一「パスパ文字」『言語学大辞典』「別巻 世界文字辞典」三省堂、2001年7月、727-734頁
・樋口康一「蒙古文字」『言語学大辞典』「別巻 世界文字辞典」三省堂、2001年7月、1038-1044頁
・中村雅之「中期モンゴル語の/h/について」 (『KOTONOHA』第97号 古代文字資料館発行、2010年12月). http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf7/nakamura97.pdf
・中村雅之「中期モンゴル語の/h/と/q/について」(『KOTONOHA』第110号 古代文字資料館発行、2012年1月)http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf8/nakamura110.pdf
 『集史』『世界征服者史』の校訂本や英訳本は、収蔵している大学図書館が限られているのでなかなかアクセスが難しいと思いますが、少なくとも関東でしたら東京大学や東洋文化研究所の図書館、あるいは東洋文庫に、関西でしたら京都大学や大阪大学の各々の図書館に一応あるはずですので、ご興味が有りましたら足を向けられるのも良いかもしれません。英訳本についてはボイルのものなどはペーパーバック本がアマゾンなどでも入手可能だったりしますので、そちらで入手した方が却って楽な場合もあるようです。だいたいはこんなところかと思います(^^; --Haydar会話2014年1月24日 (金) 18:26 (UTC)[返信]
ご丁寧にありがとうございます。今後できる範囲で調べてみようと思います。--トムル会話2014年1月24日 (金) 22:13 (UTC)[返信]

加筆ありがとうございます

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モンゴルのグルジア侵攻」の加筆・充実、たいへんありがとうございます。拙い英訳+ドーソンで、立項者としてかなり冷や汗モノでしたが、Haydar様ならきっと好記事に育て上げてくださるものとおおいに期待しています。なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。--Greenland4会話2016年7月3日 (日) 10:29 (UTC)[返信]

Greenland4さん
 連日の編集お疲れ様です。この時代のグルジア王国関係については、幸い参考文献にも一部上げた北川誠一先生の諸論文が充実している事もあって加筆し易いかと思われいくつか補足した感じでした。ところが、恐らく英語版の叙述方法に問題があったのかも知れませんが本文での概説と緒論で重複や時系列が錯綜する箇所がいくつかあったため、それに引き摺られてしまい当初考えていたよりも大分苦戦してしまいました(汗 加筆した分の情報量に比して却って読みにくくなったのではないかと改めて見直しを十分にせねばと恐縮する限りです。
 この時代のグルジア王国方面での諸々は、モンゴル帝国に帰順した政治勢力共通の問題も関わっていますが、ホラズム・シャー朝のような13世紀初頭までのイラン高原周辺の政治動向や、モンゴル帝国内部の諸勢力同士の対立、特にイラン高原に駐留するチョルマグン旗下の諸軍や、チンテムル以降のイラン総督府内外の対立に加え、モンゴル帝国中枢の政変とも連動しているため、グルジア王国は単にモンゴル帝国軍の侵攻だけではなくて、モンゴル帝国内部の様々な権力闘争のとばっちりを受けている印象もあります。(これは高麗やアルメニア等他の帰順した政権でも同様な事態に見舞われていますが) それらの主要人物達の動向を目配せした上で、グリジア王国での事態を叙述すべきだろうなあと考えながら今後も加筆出来ればと思っております。
 ちなみにですが、記事本文中にも触れられていた "wilayat-i Gurjistan" 関係の文言は、北川先生の論文中での解説によると、どうも欧米のグリジア王国研究者の言説に依拠されているもののようですが、"wilaya(t)"とはイスラーム政治思想や国政研究での重要なキータームのひとつでして、イマーム・カリフ権とも直結する術語でもあります。これに近年までのモンゴル帝国史研究での成果とを加えて照らし合わせると、どうも首を傾げるような論調が見られるようですので、適宜その種の問題点はフォローしつつ編集すべきかなとも。
 時系列を掴むにはドーソンあたりはやはりまだ十分使えますが、モンゴル帝国史研究でのグルジア王国方面に関わる分野については、本田實信先生の「阿母河等処行尚書省」がイラン総督府の盛衰を余さず述べてくれていますし、グルジア王国やチョルマグンらの動向については北川論文が詳しいですので本田論文と併せながら読むとより正確に当時のモンゴル帝国側内外の動向を見られると思います。また、後のバイジュ・ノヤンも含めてチョルマグンの駐留軍自体の構成や変遷については志茂碩敏先生の『モンゴル帝国史研究序説』等の諸論文、「Il Khan国成立後の「Adherbaijan軍政府」起源の軍隊について--Ghazan Khanの即位時前後にみられるIl Khan国におけるモンゴル諸勢力の消長」(『アジア・アフリカ言語文化研究』 (19), pp.15-48, 1980年)あたりは抑えておきたいところです。こちらこそ「まとめる」「要約する」という作業がどうにも苦手で、拙い編集になりがちかも知れませんが、今後ともよろしくお願い致します。--Haydar会話2016年7月3日 (日) 21:37 (UTC)[返信]
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