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島津 義弘(しまづ よしひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。播磨島津氏17代当主。
島津忠之の嫡男として生まれる。「天正三年忠之が『青山の合戦』で戦死した際、義弘の母はわずか2歳の義弘を抱え、足軽を使って十文字鑓をもち、石蜘城から領地下揖保庄上村にかえる。」と伝えられる。成人し、宇野氏の女を娶り、彦兵衛尉蔵人義弘と名乗る。
弟・佐渡守忠之、長男・蔵人豊後太夫忠遠、次男・長井大膳大夫忠頼と共に豊臣秀頼に仕え、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では大坂城に籠城する。同20年(1615年)の大坂夏の陣後、大坂城を逃れて、赤松祐高らと共に網干大覚寺に籠もる。しかし、池田勢に包囲され、祐高は衆兵を救わんとして切腹した。逃れた義弘は下揖保庄上村に帰還し剃髪、宗賀と名乗る。しかし2ヵ月後、上村を池田勢に包囲され、長男・忠遠、次男・忠頼は父に代わって切腹した。
家督は三男・甚左衛門政之が継ぎ、切腹した忠遠の子・忠範は下揖保庄西の野田の郷長となった。この時代、薩摩藩は龍野藩領の室津港を江戸・京都への拠点としており、薩摩公が来た際には、道案内や上洛のお供、揖保川東岸において御座所を設け、これを迎えたりした。こうした交誼は義弘の孫で19代目の島津藤太夫義綱の代まで続いた[1]。
寛永5年(1628年)正月、「慣例申伝之事」を子孫に書き残す。これには文書類を火災などで失わぬこと、家系は絶やさず、血縁を持って繋ぐこと、埋葬方法などが記されている(揖保上の本家に保存されている)。
播磨島津氏第17代当主(1575年 - 1634年) |
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宗家 |
忠久????-1227 | 忠時1227-1265 | 久経1265-1284 | 忠宗1284-1318 | 貞久1318-1363 | 総州家と奥州家に分裂
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総州家 |
師久1363-1376 | 伊久1376-1404 | 守久1404-???? | 久世????-1417 | 久林1417-1430 | 断絶
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奥州家 |
氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在
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越前家 | |
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播磨家 | |
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伊作家 |
久長1281-1317 | 宗久1317-1354 | 親忠1354-1371 | 久義1371-1422 | 勝久1422-1433 | 教久1433-1442 | 犬安丸1442-1458 | 久逸1458-???? | 善久????-1494 | 忠良1494-1526 | 相州家相続
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薩州家 |
用久????-1459 | 国久1459-1498 | 成久1498-???? | 忠興????-1525 | 実久1525-1553 | 義虎1553-1585 | 忠辰1585-1595 | 断絶
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相州家→ 垂水家 | |
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豊州家 | |
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玉里家 |
久光1871-1887 | 忠済1888-1915 | 忠承1915-1990 | 忠広1990-現在
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加治木家 | |
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佐土原家 |
忠興1610-1637 | 久雄1637-1663 | 忠高1663-1676 | 久寿1676-1690 | 惟久1690-1723 | 忠雅1723-1753 | 久柄1753-1785 | 忠持1785-1816 | 忠徹1816-1839 | 忠寛1839-1896 | 忠亮1896-1909 | 忠麿1909-1926 | 久範1926-1944 | 忠韶1944-1973 | 忠範1973-現在
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重富家 | |
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和泉家→ 今和泉家 | |
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宮之城家 | |
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永吉家 | |
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日置家 | |
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北郷氏→ 都城家 | |
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佐多氏→ 知覧家 | |
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