罪己詔
罪己詔(ざいきしょう、己を罪する詔)とは、古代中国の君主及び日本の天皇が自らの過ちを反省し、政策を変更するために出した自己批判を示す詔書の一種である。日本では「御自責(ごじせき)の詔」とも呼ばれた。[1]
概要
[編集]罪己詔は儒教の天人相関説に基づくものであり、天が人間が正しくない行いをした場合に天譴(てんけん)、すなわち天罰を下して人間に悔い改めるようにメッセージを送るという思想(天譴論)に基づいている。[2]この詔書の典拠としては、儒教経典『春秋左氏伝』荘公十一年の条に「己を罪する」という文言が有るのがあげられている。地震学者の今村明恒の研究によれば日本の天皇の「御自責の詔」では。この『春秋左氏伝』の故事が引用されるのが通例であったという。[3]
天のもっとも強烈な警告は天変地異、特に地震であり、為政者の不徳から天が地震を起こして警告を発し、罪のない民衆が犠牲になるということから極めて恥ずべきこととされた。[4]このような天の警告に対し、為政者が謝罪の弁を発するのが「罪己詔」である。
中国史における罪己詔
[編集]中国の古典籍に記録されている最も古い罪己詔(に近い話)は、前述の『春秋左氏伝』荘公十一年の条があげられる。ここには、宋公が「自分の不徳により災害が発生した」と自分を責めたことを称賛し、賢者・臧文仲が下記のような発言をしたと記載がある。
(ただし、「詔」という用語はこの春秋時代にはなく、秦の始皇帝が皇帝の発令する文書の専用の用語(いわゆる皇室用語)として創作したものである。) 正式に罪己詔を出した最初の皇帝は漢の文帝であり、最後は辛亥革命後に出した清朝の宣統帝(愛新覚羅溥儀)である(袁世凱も「罪己詔」に類似した文書を帝制廃止後に出している)。
東晋時代に偽作された『偽古文尚書(書経)』の「湯誥」、同じく『偽古文尚書』の「秦誓」(秦の穆公が鄭へ攻め入ったことで晋との殽の戦いに繋がり惨敗した時に自己反省した文章)なども罪己詔ではしばしば典拠として使用された。「秦誓」にはこう記述される。「子孫臣民を守れなければ、また危険な目にあう。国が安定しないのは一人の不徳による。国が繁栄するのもまた一人の慶による。」 この他、『詩経』にある周の成王が己を罪した詩「周頌・小毖」なども典拠となっている。
中国の学者の蕭瀚が『二十五史』をもとに調査した結果、総勢79人の皇帝が罪己詔を出していた。各王朝の内訳は、漢代15人、三国時代3人(曹魏1人、孫呉2人)、晋代7人、南朝14人、北朝1人、隋代1人、唐代8人、五代6人、宋代7人、遼代1人、金代1人、元代4人、明代3人、清代8人となる。
中国の「罪己詔」は皇帝が自分の責任を認めて民衆に謝罪する意志を示すものであり、対象は天変地異だけではなく日食・敗戦・騎馬民族の侵攻・民衆反乱も含まれている。皇帝は詔書を発するだけではなく、自ら宗廟で先祖の霊に祈り、食を減らして謹慎するなど、精神論的な色彩が色濃いのが中国の「罪己詔」の特色である。また、臣下は皇帝に恥をかかせないようにすることが大事だと考えられていた。皇帝が責任を取る代わりに宰相が責任を取る場合もあり、翟方進のように日食の責任を取らされて処刑された宰相もいた。[6]中国の歴史学者顧頡剛は「漢代の宰相は天を恐れるあまり、政治もせずに天体観測や陰陽吉凶の判断が職責になっており、まるで占い師同然だった」としている。[7]
日本史における罪己詔
[編集]日本の天皇が発した「罪己詔」は奈良時代から平安時代に集中しており、今村明恒によれば下記のような決まった型があったという。
冒頭に聖天子の政道を叙し、政事の不行届に由って天譴の下る次第を説き、這般の震災は上一人の責任であつて、下兆庶には何等の罪科が無い筈なのに、其の天譴を負うに至ったのは実に気の毒である。宜しく使を遣わし、国吏と議して、免租・賑恤等のことを行え。 — 今村明恒、「地震及び火山噴火に關する思想の愛遷」『地震』第16巻第6號、1944
なお、東北地方で震災が発生したときは「災害復興や減税については、和人・蝦夷を区別せず、一視同仁の精神で行いなさい」という文章が入る。[3]中国と違い、人種差別を戒めていること、現代日本社会と同じく具体的な減税・復興などの指示を伴う点が特色である。[8]また、火山が噴火した場合は火山への官位授与も行われ、仏教・神道・陰陽道による各種の祈願も伴っていた。[8]
なお、今村・高田の研究によれば、平安時代の貞観年間以降日本の天皇による「罪己詔」は出されなくなる。これは藤原氏による摂関政治、その後は武家政治となり、為政者の責任を認めてしまうと大政奉還をせざるを得なくなり、権力が失墜してしまうために、年号改元でごまかすようなしきたりになってしまったのだという。[9]
また、江戸時代になると地震は天譴というより自然現象であるという認識が経験則により普及したことで、精神論による謝罪を意味する「罪己詔」よりも実質的な災害対策、復興が優先されるに至った。[8]
中国歴代の主な罪己詔
[編集]漢代
[編集]- 漢の文帝の後元元年(紀元前163年)の詔書、「近年の不作・洪水・旱魃・疫病が非常に心配だ。朕は愚かで原因が分からない。なのに非難もされていない。自分の政に落ち度があるのだろうか?……役人の給料が高すぎて無駄がありすぎたのだろうか?なぜ民の食料が不足しているのか」[10]
- 漢の武帝は征和4年(紀元前89年)、輪台罪己詔(中国語: 轮台诏)を出した[11]。これは中国歴史上で最も内容が豊富で保存状態が良い罪己詔である。
- 漢の明帝の永平8年(65年)10月壬寅に日食が起こり、詔書が出された。「……長く責任の所在を考えたが、君主である私一人に責任がある。職事を学び修めた郡司が率直に物を言うことを止めることはしない。」[12]
唐代
[編集]- 「罪己詔」に類似する例として、唐の太宗李世民は貞観二年(西暦628年)に蝗害が発生したとき、「天よ、罪のない民衆の作物を食うぐらいなら、責任者である朕の体を食え!」と言い、群臣の制止をふりきってイナゴを生きたまま飲み込んでしまったという。「神の心を動かした帝王の行い(四)」看中国、2024年2月12日閲覧
- 唐の憲宗は、元和3年(808年)冬、大旱魃が起きたため、「罪己詔」を発して雨を求めた。
宋代
[編集]宋王朝は騎馬民族王朝(征服王朝)の金・元の侵攻に苦しみ、それを打開する目的で北宋末期から南宋にかけてしばしば「罪己詔」を発している。
- 淳化5年(994年)9月丁丑、蜀の反乱をほぼ平定すると、太宗は「罪己詔」を下した[13]。
- 宣和7年(1125年)12月己未、徽宗は「罪己詔」を下した[14]。
- 建炎3年(1129年)2月壬戌、晋寧軍を金に攻め落とされたことから、この月の癸亥に高宗は「罪己詔」を下し、直言を求めた[15]。
- 隆興元年(1163年)5月甲寅、北伐に乗り出した宋軍が符離で金に大敗すると、6月癸酉に孝宗は「罪己詔」を下した[16]。
- 嘉泰4年(1204年)3月丁卯、臨安での大火により太廟が焼失すると、この月の甲戌に寧宗は「罪己詔」を下した[17]。
- 開禧3年(1207年)7月乙酉、災変に対する反省から、寧宗は「罪己詔」を下した[17]。
- 嘉定6年(1213年)閏9月乙未、大きな雷があったため、この月の丙申に寧宗は雷が落ちたのは私の責任だとして「罪己詔」を下した[18]。
- 端平3年(1236年)4月癸丑、襄陽がモンゴル軍により陥落すると、理宗は「罪己詔」を下した[19]。
- 嘉熙4年(1240年)1月辛未、彗星が営室に出現したことから、この月の庚辰に理宗は星変(天文の異変)を理由として「罪己詔」を下した[19]。
- 徳祐元年(1275年)3月丙子、モンゴル軍の攻勢による国難に際し、恭帝は「罪己詔」を下した[20]。なお、この「罪己詔」の後、南宋は元に降伏した。
明代
[編集]- 建文帝は、燕王(後の成祖)の軍が城下に迫った時に罪己詔を出した。その文書は現存していない。
- 明の成祖は新設した北京の紫禁城が雷に打たれて大火事になった時、宗廟に入り自身を省みて罪己詔を出した。
- 正統8年(1443年)、奉天殿の鴟吻が雷に打たれ、英宗はまた罪己詔を出した。「まさに祁鎮(英宗)自らの不徳の致すところで、祁鎮は心底に怯え恐れております。自らの行いを戒め謹み、反省して怠けないように努めます」と誓っている。
- 景泰2年(1451年)10月、代宗は罪己詔を出した。「君主は徳を失い、臣下は職を失った。」
- 正徳9年(1514年)正月16日、乾清宮の大火で、武宗が罪己詔を出し、あわせて群臣にも同じく自ら反省することを命じた[21]。
- 嘉靖36年(1557年)4月、三大殿の大火で、世宗が罪己詔を出した。「ただ仁愛をもってしても全て朕自らの咎は重い。私は罪己の文を下し、臣民全てにこれを示す。」
- 万暦24年(1596年)、乾清宮と坤寧宮の両宮の大火で、神宗は罪己詔を出した。「長く非難を受ける理由は朕の不徳の致すところです。朕は自責の念で身が引き裂かれる思いであり、体も震え乱れ安らかではありません。痛みを伴って悔い改め、郊外の廟で祈りを捧げ、国内外に喜びを与え、改革に努めることとする。私は罪己の言を下し、共に正しく戒めを受けるつもりである。あらゆる場所に苦しみがあり、朕自らにもあり、咎やあやまちは君主一人の責任であり、民は謹んで諭すのが適切であり、天の戒めを承り、禊を成して嘆きを分かち、大法小廉で全ての臣下が忠義を持ち善良であり、公務の精神を持つことが大切である。国内は安らかに国外は静謐にすることが国の統治に期す。」[22]
- 王恭廠大爆発災害の時(1626年)に、明朝はちょうど内外の政情が混迷し、不安定になっており、国家政治は腐敗し、宦官が専権をふるい、善悪不分だった。災害の一報は迅速に全国に伝わり、朝廷内外を動揺させ、国内外も震撼させ、人心に不安を与えた。多くの大臣が、この大爆発は天から皇帝への警告であると考え、次々と上書し、天啓帝に時弊を匡正し国の規律を正せと要求した。皇帝は罪己詔を出さざるを得なくなり、厳しく反省することを表明し、大小の臣下らに対しても「洗心し仕事に尽くすことに務め、厳しく反省すること」と戒め、大明国家国土の長治久安を願い、万事災害がなくなるよう務め、且つ国庫のすべての黄金を災害救援に使うよう詔を発付した。
- 李自成らの民衆反乱や清のヌルハチらの騎馬民族の侵攻に苦しんだ明の思宗は6回罪己詔を出している。『明史』陳子壮伝によれば、臣下の陳子壮が「反乱軍を抑えるためには人心を収拾せねばなりません。陛下、罪己詔を下して忠義の士を募るべきでございます」と進言したためであるという。しかし、これらの詔の効果はなく、明は李自成軍に敗れてしまい、紫禁城も落とされてしまった。自ら首を括る前に自らの着衣の襟に「罪己」の詔を下した。「朕は徳もなく、体も弱かったのに皇帝の地位に就いた。朕は天罰を受けてしまった。これはみな臣下が朕を誤らせたのだ。朕は冥土で先祖に合わせる顔がない。朕は恥ずかしいので冕冠を脱いで髪で顔を隠す。逆賊に体を引き裂かれてもいい。どうか民はただの一人も殺傷しないでほしい」と。殉死した家臣は僅かに数十名であった。[23]
明代の皇帝は多くの自省の活動を行っていた。正殿を避ける、日々の食事の内容を減らす、天地や宗廟、社稷で祈る、などをして自ら痛みを与え反省をした。罪己詔は、成化年間以降に、比較的頻繁に出された[24]。
清代
[編集]- 清の順治帝は生前6回[25]罪己詔を出し、臨終の際には14条の罪状を挙げ己を有罪とした。
- 康熙18年(1679年)7月、三河・平谷地震により罪己詔が出された。
- 康熙20年(1681年)12月、罪己詔が下された。
- 嘉慶18年(1813年)9月、嘉慶23年(1818年)4月、罪己詔が出た。
- 光緒26年(1900年)12月、庚子事変により罪己詔が下された。
- 宣統3年(1911年)9月、辛亥革命の際に、摂政王、愛新覚羅載灃が罪己を詔した。
注釈
[編集]- ^ 今村明恒「地震及び火山噴火に關する思想の愛遷」『地震』第16巻第6號、1944
- ^ 高田理夫「自然災害雑考」京大地震研究所、1985
- ^ a b 今村1944
- ^ 高田理夫1985
- ^ 原文はウィキソースの『断句十三経経文』本を元とし、訳文は竹内照夫『春秋左氏伝』平凡社中国古典文学大系2を参考にした
- ^ 顧頡剛口述『中国史学入門』p171 研文出版、1987。ただし、『漢書』翟方進伝によれば原因は日食ではなく「火星が心宿(アンタレス)に入った」ためであり、天体現象は口実で、皇帝は「こういう不吉な現象が起こったのはお前の悪政のせいだ」と翟の飢餓・民衆反乱などの失政を厳しく詰問し、翟は即日自害したとあり、顧頡剛の説と異なる。
- ^ 顧1987,p171
- ^ a b c 高田1985
- ^ 今村1944、高田1985
- ^ 『漢書』文帝紀
- ^ 『漢書』西域伝下
- ^ 『後漢書』顕宗紀
- ^ 『宋史』太宗紀二
- ^ 『宋史』徽宗紀四
- ^ 『宋史』高宗紀二
- ^ 『宋史』孝宗紀一
- ^ a b 『宋史』寧宗紀二
- ^ 『宋史』寧宗紀三
- ^ a b 『宋史』理宗紀二
- ^ 『宋史』瀛国公紀
- ^ 《明書・巻五十四》傅維麟纂,華正書局,民63,頁 1044
- ^ 傅維麟編纂『明書』巻五十五。華正書局,民63,頁 1070
- ^ 『明史』明史卷二十四・本紀第二十四・荘烈帝二、原文は「御書衣襟曰:『朕涼德藐躬,上干天咎,然皆諸臣誤朕。朕死無面目見祖宗,自去冠冕,以髮覆面。任賊分裂,無傷百姓一人。』
- ^ 《明史・本紀巻二十四 荘烈帝一》許嘉璐編,漢語大辭典出版社,民93,頁 251
- ^ 順治十年閏六月、順治十一年六月、順治十三年三月、順治十四年九月、順治十七年正月、順治十八年正月