蒼鷹 (隼型水雷艇)
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艦歴 | |
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計画 | 明治30年度計画[1] |
起工 | 1902年4月15日[1] |
進水 | 1903年3月14日[1] |
就役 | 1903年8月1日[1] |
除籍 | 1922年4月1日[1] |
その後 | 1922年4月1日雑役船編入、曳船兼交通船指定[1] |
廃船 | 1927年9月19日[1] |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:152トン |
全長 | 垂線間長:45.00m (147ft 7in 11/16) |
全幅 | 4.91m (16ft 1in 7/16)[2] |
吃水 | 1.45m (4ft 9in 3/32) |
機関 | ノルマン式缶2基 直立式3気筒3段膨張レシプロ2基 2軸 4,200馬力 |
速力 | 28.5ノット[3] |
航続距離 | 10ノットで2,000海里 |
燃料 | 石炭:28.5トン(満載) |
乗員 | 30名 |
兵装 | 4.7cm保式単装軽速射砲3基(推定) 45cm水上旋回式発射管3基 |
蒼鷹(あをたか[4]、あおたか)は、日本海軍の水雷艇で、隼型水雷艇の6番艇である。同名艦艇に初鷹型急設網艦の「蒼鷹」があるため、こちらは「蒼鷹 (初代)」や「蒼鷹I」などと表記される。
艦歴
[編集]発注時の艇名は第七号百二十噸水雷艇[4]。1900年(明治33年)10月15日、蒼鷹と命名[4]。1901年(明治34年)2月7日、水雷艇に編入され等級一等となる[5]。1902年(明治35年)4月15日、呉海軍造船廠で起工[1]。 1903年(明治36年)3月14日に進水し、同年8月1日に竣工。
日露戦争では旅順口攻撃や、日本海海戦では第九艇隊の司令艇として夜戦に参加した[1][6]。
1922年(大正11年)4月1日に除籍され[7]、同日、雑役船に編入となり、曳船兼交通船に指定され佐世保海軍工廠所属となる[1][6]。1927年(昭和2年)9月19日に廃船[1][6]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」27頁。
- ^ 4.91mは『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表の値をメートル換算した値。『世界の艦船 増刊第47集』によると4.90m。
- ^ 『世界の艦船 増刊第47集』による。『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表によると29ノット。
- ^ a b c #海軍制度沿革(巻8、1940) 390頁。◎「一等水雷艇雁外五隻命名ノ件」明治三十三年十月十五日(達一六二) 呉海軍造船廠ニ於テ製造スヘキ一等水雷艇六隻へ左ノ通命名ス |〔中略〕第七号百二十噸水雷艇 蒼鷹 アヲタカ〔以下略〕。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 63頁。◎明治三十四年二月七日(達七) 軍艦及水雷艇類別等級別表中ニ左ノ通追加ス 水雷艇一等ノ欄「千鳥」ノ次ニ「雁、蒼鷹、鴿、燕、雲雀、雉」ヲ加フ。
- ^ a b c 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、479頁。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 78頁。◎大正十一年四月一日(達四八) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル。
参考文献
[編集]- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 中川努「日本海軍特務艦船史」
- 『世界の艦船 増刊第47集』海人社、1997年3月号増刊、第522集。
- 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
- 堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、1969年。ISBN 4-562-01873-9
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料篇、KKベストセラーズ、1994年。