蕭阿剌
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蕭阿剌(しょう あら、? - 1061年)は、遼(契丹)の外戚。字は阿里懶。
経歴
[編集]北院枢密使蕭孝穆の子として生まれた。幼くして宮中で養われ、興宗に可愛がられた。重熙6年(1037年)、弘義宮使となった。同知北院枢密使に累進し、同中書門下平章事の位を加えられ、東京留守として出向した。重熙21年(1052年)、西北路招討使となり、西平郡王に封じられた。まもなく秦晋国王公主を妻に迎えて、駙馬都尉に任じられた。
清寧元年(1055年)、興宗の遺詔により北府宰相となり、南院枢密使を兼ね、韓王に進んだ。清寧2年(1056年)、北院枢密使に転じ、陳王に徙封され、蕭革と国政を司った。蕭革が道宗にへつらって法を犯したので、阿剌は蕭革を告発した。聞き入れられなかったため、引退を願い出た。このため道宗に憎まれ、東京留守として出された。瑟瑟の礼(雨乞いのために柳を射る儀式)が行われたときに、阿剌は入朝して時政の得失を述べた。蕭革はこのことで阿剌を中傷した。道宗は中傷を真に受けて怒り、清寧7年(1061年)5月に阿剌を首吊りにして処刑した。仁懿太后は阿剌を救おうしたが間に合わず、「阿剌は何の罪があって殺されたのか」と嘆いた。乾陵の赤山に葬られた。
阿剌は忠実で実務に明るく、行政の才能があった。当時の人は阿剌がもし生きていれば、耶律重元の乱や耶律乙辛の乱はなかっただろうと評した。
子女
[編集]伝記資料
[編集]- 『遼史』巻90 列伝第20