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金 (王朝)

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大金
遼
北宋
斉 (劉予)
1115年 - 1234年 モンゴル帝国
南宋
東遼
大真国
金の位置
公用語 女真語漢語契丹語
首都 会寧1115年 - 1153年
燕京1153年 - 1215年
開封1215年 - 1234年
皇帝
1115年 - 1123年 太祖
1234年 - 1234年末帝
面積
1126年2,300,000km²
人口
1142年32,700,000人
1190年45,447,900人
1210年53,720,000人
変遷
建国 1115年1月28日
を滅ぼす1125年
靖康の変1127年
黄河以北の領土を失陥1215年
モンゴル帝国によって滅亡1234年2月9日
通貨交鈔銅貨
現在中華人民共和国の旗 中華人民共和国
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
ロシアの旗 ロシア沿海地方
モンゴルの旗 モンゴル
中国歴史
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中石器時代中国語版
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古国時代
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西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

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(きん、拼音:Jīn、女真語 [amba-an antʃu-un]1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族征服王朝

国姓完顔氏(ワンヤン し、女真語:)。契丹人王朝の、漢族王朝の北宋を滅ぼし、タングート西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国に滅ぼされた。都は初め上京会寧府(現在の黒竜江省ハルビン市)に置かれ、のち、1153年に燕京(中都大興府。現、北京市)に遷され、13世紀に入ってモンゴル帝国の攻勢を受けると、最終的には南京開封府(現、開封市)を首都とした。

歴史

金の建国と華北進出

金を建国する前の女真(ジュシェン)は、満洲(マンチュリア)の地域すなわち、現在の遼寧省吉林省黒龍江省ロシア連邦沿海州外満洲)という広い地域に住んでいた[1]。ジュシェンはツングース系民族に属し、紀元前2世紀頃からの夫余紀元前1世紀頃に族によって建てられた高句麗、紀元後5世紀頃から一定の勢力を有していた 勿吉靺鞨、そして粟末靺鞨に高句麗遺民を加えて7世紀末葉に建国され、「海東の盛国」と称された渤海は、いずれもツングース系とみられ、狩猟や牧畜を主な生業としながらも、比較的早い段階から農耕を取り入れていた[1]

「女真」は本来、靺鞨五部のうちの「黒水部」と呼ばれた集団による自称であるといわれている。モンゴル系契丹人の建てたの時代に入ると、松花江豆満江流域、朝鮮半島北部の咸鏡南道咸鏡北道方面に居住域を広げ、遼や高麗に朝貢し、「黒水女真」や「東女真」などと称されていた[2]。女真人は、農耕・牧畜・狩猟・採集・漁撈などに従事し、中国内地との間で朝鮮人参(オタネニンジン)やクロテンなど獣の毛皮を交易していた[3][4][5][6]。また、「北珠」と称された宋人たちの珍重する真珠の産地でもあった[6]。馬や金の産地でもあり、上記のものも含め高麗や契丹と交易し、武器などを得た[1][6]。契丹人王朝の支配が中国東北部におよぶと、女真族は、ツングース本来の漁撈や農耕、養豚、狩猟を生業としていた生女真と、遼にしたがい、その領土内に移されて遼の戸籍につけられていた熟女真に大別された[1][2][6]

生女真に属していた完顔(ワンヤン)氏は、現在の黒竜江省の松花江(スンガリ川)の支流アシュ川中国語版(按出虎水)流域に生活し、契丹(キタン)人国家の遼に服属していたが、キタン人支配者たちは奢侈的な生活にふけり、女真に対して過酷な搾取を行った[7]。遼は、南方のと交易するのみならず、ウイグルを通して西域とも交易し、西域の奢侈品を輸入していたが、遼の支配域にはこれといった産品がなく、宋から歳幣としてを受け取っていたものの、多くは宋の産品を購入するために消費されていた[7]。キタン最後の皇帝、天祚帝耶律阿果は、深酒をするようになって狩猟に熱をあげ、その政治はしだいに放漫なものとなっていた[1]。キタンはもともと、女真族の住む東北地方の経営には必ずしも積極的ではなかったものの、毎年、狩猟に用いるための海東青)をもとめてワンヤン部の領域を経由し、松花江下流域に使臣を派遣しており、この使者たちの横暴なふるまいは女真の人びとを怒らせた[1][7][8]。使臣たちは海東青を求める名目でジュシェンの人びとに金を献上させ、またジュシェンの婦人たちに暴行を加えることもしばしばあったという[7][注釈 1]

こうしたなかから、ワンヤン部から出た阿骨打(アクダ)が遼に対して反乱を起こし、1115年に按出虎(アルチュフ)水の河畔で即位し、「大金」を国号とした[1][9][10][注釈 2]。按出虎水の女真名アルチュフは、女真語で"黄金"を意味しており、「金(アルチュフ)」の国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によって栄えたことによるとされる[1][9][8][注釈 3]。最初の首都となった会寧(上京会寧府)は按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる[1]。『金史』(1345年成立)によれば、

遼は、堅い精錬した鉄を国の号としたが、それは結局変色し、壊滅する。ただ、金だけはそうはならない。金の色は白く、ワンヤン部は白色をたっとぶのだ[1]

として、遼に対する対抗心をあらわにしている[1]。キタンの熟女真支配の拠点となっていた黄龍府(現、吉林省中部農安県)をアクダの軍が攻めるとキタンの天祚帝みずからが70万とも号する兵を率いて遠征したが、アクダ軍の大勝利に終わった[1][9]1116年、アクダ率いるジュシェン軍は、東京遼陽府(現、遼寧省遼陽市)も陥落させて遼東地方を支配下に収めた[1][9]。遼の権威は地に墜ち、キタンはアクダに講和を申し入れた[1]。一方、アクダの快進撃の報に接した宋王朝も金王朝に接近し、1118年、宋と金で遼を挟み撃ちにすることをもちかけた[11][注釈 4]

キタンとの講和交渉が進まないなか、金は宋の提案に乗ることとし、1120年に北宋と「海上の盟」と称される盟約を結んだ[11][14]。条件は、従来キタン国家の遼に支払ってきた歳幣(絹30万匹、銀20万両)をジュシェン国家の金にまわすこと、金は戦闘において万里の長城よりも南に越えないこと、金・宋同盟が成ったのちは金・遼講和を進めないことの3つであった[11][14]。さらに宋側から追加された条件は燕雲十六州に関してであった[11]。それは、燕京(現、北京)については宋が攻めるが、雲州(西京。現、山西省大同)の攻撃は金が担当してほしい、ただし、占領後は宋に引き渡してほしいというものであった[11]。アクダは、あまりに身勝手な宋の申し出に反駁し、宋もそれに答えられない状況が続いたが、結局は約束通り、雲州を制圧して天祚帝耶律阿果を陰山山脈方面(当時は西夏の領域)に敗走させた[11][14]。一方の宋は南方で方臘の乱が起こったため、燕京攻撃のために用意した軍の一部をこれにまわさざるを得ず、攻撃が遅れた[11][15]。しかも宋は、キタン最後の砦としてのこした耶律淳らの守る守備軍に敗北を喫したため、当初提示した条件を自ら破り、金に援軍を要請した[11][15][注釈 5]。結局、金が燕京を落として宋に割譲し、代償として大量の銭と糧食を得ることとなった[11][注釈 6]。しかし、宋朝は歳幣を支払わないだけでなく、遼の天祚帝と連絡をとってジュシェン国家西部の攪乱をねらった[11]

『金史』によれば、この間、太祖アクダは同族の完顔希尹や完顔葉魯らにジュシェン語をあらわす文字の創成を命じ、彼らは1119年天輔3年)8月、契丹文字漢字を参考にして女真文字(「女真大字」)を完成させたという[17][注釈 7]

阿骨打(アクダ)は1123年に死去するが、弟の太宗呉乞買(ウキマイ)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配した[11][18][19][注釈 8]。降伏した天祚帝はジュシェン民族の聖なる山、長白山(朝鮮名、白頭山)に送られた。宋の背信行為はすべて露見した[11]。太宗ウキマイは1125年9月、宋への侵攻を開始し、華北一帯を席巻、1126年正月には宋の首都開封を包囲した[11][19][20]。宋朝廷では和戦両様で方針の定まらない状態が続き、結果としては金は莫大な賠償(金500万両、銀5,000万両、牛馬1万頭、布帛100万匹)を得たうえに宋が金の皇帝を伯父として敬うという名目をも獲得して和議を結び、金は北方に引き揚げた[11][20][注釈 9]。宋では徽宗がおびえて退位し、欽宗が新たに即位した[20]。しかし、金軍が撤退すると宋は再び背信し、雲州方面に金への反抗を命ずるなど攪乱を画策して和約を破ったので、1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させて欽宗を北方に連行し、北宋を滅ぼした[11][19][22]。このたびは、ウキマイの宋を廃する決意が固く、宋に対して天文学的な軍事賠償を要求し、また上皇・皇帝を人質として差し出すことを命じ、賠償が十分に払われないとみるや兵に開封の略奪を命じた[11][22]。北宋滅亡に至る、1125年9月から1127年3月までの一連の事件を靖康の変と称する[11][22]。靖康の変では、欽宗のみならずその父で上皇となっていた徽宗、および多くの皇族や官僚、公主たちを含め3,000人を連行し、燕京やジュシェンの故郷である東北部に連れ去った[11][19][22][注釈 10]

金の華北支配

破竹の勢いの金の強さは、時の勢いも手伝ったこともあったが、後述する勃極烈(ボギレ)制や猛安・謀克(ミンガン・ムクン)制によるところも大きかった[24]。しかし、北宋を滅ぼした金の中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点を示し、統治の面では慣れない漢民族支配に自信が持てなかった[24][注釈 11]。そこで太宗ウキマイが採った方法は、過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にすることであった[24]。太宗ウキマイは1127年3月、宋の宰相であった張邦昌を皇帝にすえ、国号をとさせて、名目上の首都を金陵(現、南京)とした[24][25]。しかし張邦昌は、その4月、金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の康王(趙構)を皇帝位につける運動を主導した[24][26]。趙構は、徽宗の第九皇子で、靖康の変の際、開封にいなかったため皇族のなかで唯一難を逃れていた[24][26]。南に逃れた趙構は、江南の北宋残存勢力を糾合して高宗として皇帝に即位し、宋王朝を復活させた(南宋[24][26][注釈 12]。金は南宋に対する懲罰を名目として再度の南征を開始し(宋金戦争)、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦った。

1130年、金は南宋の力を弱めるために、宋の地方知事であった劉豫を皇帝に立ててを樹立し、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した[24]。同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。一方、徽宗や欽宗を黒竜江省依蘭県まで移送し、宋人の反抗・奪還の芽をつぶした[24]。斉国は金の傀儡政権として南宋に対峙していたが、1137年には廃され、金は汴京(開封)を出先の根拠として華北の直接支配に乗り出した[24]。金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力交代の末、1138年にいったん結んだ和議が破棄され、1142年にあらためて両国の間で和約が結ばれた(紹興の和議[27]。この和約は、両国は淮河を以て国の境とし、宋は金に対して臣下の礼をとり、歳貢として銀25万両、絹25万匹を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった[27][28]。金はすでに1124年にはタングート西夏の、1126年には高麗の臣礼を受けていたので、四海の君としての名義を得た[27]。ただ、金が支配する華北の地は、ジュシェン(女真)人が大量に移住したとはいえ、なおも圧倒的に漢人が多く住む世界であった[27]1135年に第3代皇帝となった熙宗ホラの時代から、金はしだいにジュシェンの独自性は失われ、中華の風にそまっていった[19][27]。漢地を直接支配することになった金朝は、中国式国家体制を採用したのは、それが便利だったためであったが、しかし、中国式の独裁体制を布くにはジュシェンの上層部では皇族の力が強大にすぎたのである[29]

1142年における女真族王朝「金」と周辺諸王朝
南宋)は漢民族王朝、西夏はチベット系タングートの王朝、西遼は遼の王族耶律大石の建てたキタン人王朝、大理はチベット系ペー族の王朝
金の疆界図

漢化の進展と抑制の試み

熙宗は皇族を弾圧して大量の殺戮をあえておこない、自らの求心力を高めようとしたが、その結果、人心は不安定さを増し、熙宗自身も酒乱となって常軌を逸する言動がみられるようになった[19][27][29]1149年、熙宗の従弟にあたる迪古乃(テクナイ)は宗室の者とはかり、皇帝を殺害して帝位を簒奪して、4代海陵王となった[19][27][29][注釈 13]。海陵王は、宗室や有力者を大量に殺して独裁権を確立し[注釈 14]1153年、都を会寧から燕京(中都大興府)に遷都して中華風の国家に改造し、中央集権体制の確立を図った[19][27][29][注釈 15]。身内を信じられなくなった海陵王はさかんに漢人官僚を登用した[30]

1161年、海陵王はこの時代の征服者として初めて中国(天下)の再統一を企図し、南宋を滅ぼすために南征の軍を起こした[19][27][30][注釈 16]。海陵王は皇族や重臣たちの忠告も無視し、20年来の平和条約をも破って南征軍を組織し、従来のような陸上部隊だけではなく軍艦を建造して海軍を創設し、一方は山東半島から杭州の横を突き、他方は運河を利用して江蘇省方面に南下しようという戦略を立てた[27][30]。それまで穏便な懐柔政策のもとで暮らしてきたモンゴル高原契丹(キタン)人にも強制的な徴兵がなされた[27][30]。金軍は60万と号する大軍を組織したが、慣れない水戦に苦戦した[27]。また、宋軍が火砲を用いた采石磯の戦いでは手痛い敗北を喫している[30]。その間に各地で契丹の反乱が勃発した[27]。海陵王はその知らせを聞いても強硬に宋征服を続けたが、海陵王の恐怖政治をきらった有力者たちが東京(遼陽)にいた皇族で彼の従弟にあたる烏禄(ウル)を擁立し、ジュシェンの人々は雪崩を打って烏禄に味方した[19][30]。海陵王は軍中で部下に殺害され、烏禄が即位した[19][27][30]。金の世宗である[27][30]

世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、1164年乾道の和約中国語版を結んだ[27]。その内容は、従来の君臣関係を叔姪関係へと緩和し、歳貢を歳幣と呼び換え、25万両ずつの銀・絹をそれぞれ20万両に減額するというものであった[27][注釈 17]。その一方でキタン人の反乱を速やかに収めて国内を安定させた[27]。さらに世宗は海陵王の遠征で大きく損なわれた財政の再建をめざし、増税をおこない官吏を削減した[30]。南宋では、同じ時期、こちらも南宋随一の名君とされる孝宗が立ち[31]、その後40年にわたって両国の間では平和が保たれ、金朝にあっては繁栄と安定の時代をむかえたといわれる[32]。これを「大定の治中国語版」といい、世宗は「小」と称えられた[32]。世宗はまた、貧窮化する女真人の生活を守り、女真文化を保護・発展させる国粋的な施策を展開した[32][注釈 18]。一方で、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、この頃から金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったとの指摘もある[32]

平和が長引き、女真(ジュシェン)の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(キタン族を含む)との割合は1:6ほどであったので、女真の軍事力の弱体化が問題となった。世宗もまた燕京に都を定めたが、ジュシェンの民は中華の華美な風俗に染まり、固有の文化を忘れて漢化が著しくなった[19]。世宗は、漢化の傾向に歯止めをかけ、女真(ジュシェン)精神の涵養のため、しばしば皇族や家臣に訓戒をあたえ、満洲の上京会寧府にも行幸して1年滞在したこともあった[32]。また、女真文字・女真語を用いた学校をつくって女真語による科挙もおこない、女真人が女真人を教育する仕組みをつくった[19][32]。さらに、四書五経などの漢文献の女真文字への翻訳事業も行った[32]。しかし、農耕技術において、また、とりわけ商業・交易の面では漢人の才覚がすぐれ、人口も多かったので、女真(ジュシェン)の固有性を維持していくことには限界があった[32]。女真人・女真文化保護のための諸政策にもかかわらず、かれらの経済的な没落はいちじるしかった[32]。ジュシェン人は華北移住のはじめ、相応の田畑をあたえられたが、彼らのなかには、その土地を漢族農民に小作させ、小作料に依存して徒食し、宴楽にふけって貧窮化し、最終的に農奴に成り下がるという者もあった[19]

衰退から滅亡へ

世宗の皇太孫であった麻達葛(マダガ)が第6代章宗として即位した1189年頃から、モンゴル民族の北からの侵入が活発化しはじめた[19][34]。章宗は、制・法典格式をはじめとして科挙官制などの体制整備や常平倉の設置など積極的な行政改革を行い、金は中国王朝としての姿を完成させた。この時期の金朝は、国内が安定したこともあって明昌の治とも称されている。また、文化面でもすぐれ、章宗自身、北宋の徽宗に匹敵する文人皇帝で、絵画の作品を残した。一方、もともと金の北方防衛を任されていたはずのキタン人、チュルク人、タングート人、モンゴル人などが金の統制を離れはじめ[27]、その防禦のために金の財政は圧迫されるようになった[19][34]。章宗は、10年にわたって「界壕」と称される土塁チチハルの北からフフホトの北まで延々と築いたが、これは北方遊牧民に脅威をいだいて造られた、草原における新たな長城であり、もはや、心理的には従来の漢族王朝と変わるところがなかった[19][27]。章宗は豪奢な生活を好み、官吏の数も世宗時代の3倍に増えていた[19]

「界壕」建設に加え、1194年には黄河の大決壊が生じ、金はいっそう経済的苦境に立たされた[27]。金の疲弊に乗じようと考えた南宋の宰相韓侂冑は、これらを好機と見て1205年に戦端を開き、金に攻め込んだが逆に撃退され、金と南宋は韓侂冑の首と引き換えに和約を結んだ(開禧用兵[19][27]。和約では、1142年の国境線にもどり、金・宋の関係が叔姪の関係から伯姪の関係となり、宋から金への歳幣は1142年の取り決めより銀・絹5万両ずつ増額され、さらに金は宋から賠償金として300万貫を得た[27]。これにより、宋軍は自力では金を倒せないことが明らかになった[27]。一方、モンゴル高原では部族勢力の動きが活発化してタタル部やキタンの反乱が激しくなり、金は鎮圧に際してケレイトのオン・カン(ワン・ハン)やモンゴルのテムジンの助けを借りた[19]。これは結果的に彼らの勢力を伸張させることとなり、1206年のモンゴルのチンギス・カンによる高原の統一を間接的に促す結果となった[35]

1208年、章宗が崩御して叔父にあたる果繩(ガジェン)が7代衛紹王として即位すると、チンギス・カンは彼に対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した(第一次蒙金戦争[35]。内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は金軍を破って長城を突破し、2年あまりにわたって金の国土を略奪した。1212年には遼の皇統を継ぐキタン人の耶律留哥が、自ら「遼王」と称して反乱を起こし、現在の吉林省から遼寧省にかけて支配地を広げ、モンゴルの配下に入った(東遼)。敗北を重ねた金では、1213年クーデターが起こって将軍胡沙虎によって衛紹王が殺され、さらに胡沙虎自身が殺された。

吾睹補(ウトゥプ)が新帝宣宗として即位すると、1213年、モンゴルに対する和議に踏み切り、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を納めることを約束し、岐国公主(衛紹王の皇女)をチンギスに嫁がせる内容の講和を結んだ[34]。講和によりチンギスは撤兵したが、1214年、金は中都(燕京)を捨て、河南の開封に遷都した[27][35]。このとき、金の南遷に動揺したキタンの一部が燕京で反乱してモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を和約違反と責めて金に対する侵攻を再開した。1215年夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に中都は陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った。この年、耶律留哥の叛乱鎮圧を担当していたジュシェンの蒲鮮万奴が独立して大真国(東夏国)を建て、遼東半島の一部から吉林省咸鏡道、沿海州南部までを支配するようになった[34][35][注釈 19]。これにより、金の帝室は満洲に逃れることもできなくなってしまった[34]。ジュシェン金、タングート西夏、中華の宋も入り乱れての戦闘も1224年にはいったん収束し、講和にいたった[27]

宣宗の子寧甲速(ニンキャス)は1224年、皇位を継承した(9代哀宗)。哀帝は、タングート西夏との同盟に活路を見いだそうとするが、正大4年(1227年)に西夏が滅亡すると、金は再びモンゴル軍の攻撃目標となった。金は開封を都とし、河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止められなかった[34]。また、防戦のために多額の軍事費を必要としたため、人民の負担は増し、各地で反乱が絶えなかった[34]。100万におよぶ猛安謀克軍が河北から河南に移ったが、河南にはそれを養う余力がなく、ジュシェン人からの搾取を漢人たちは深く恨んだ[35]。金の窮状をみてとった宋は歳幣を送ることを停止し、復讐の姿勢を示すようになり、金は南北から脅威を受けるようになった[34]。1227年にチンギス・カンの後を継いだオゴデイは南宋と連合して金を挟撃することを提案した[27]。モンゴルは成功のあかつきには、南宋に河南の地をあたえることを約束した[34]。宋朝では、モンゴルと結ぶことにごく一部の反対論があったものの、結局この提案に乗り、共同作戦が始まった(第二次蒙金戦争[27][注釈 20]

1232年、金は三峰山の戦いで大敗し、軍主力が消滅した。以後は抵抗もままならず、1234年には開封包囲戦により、首都が陥落した[27][34][35]。哀宗は開封から脱出し蔡州に逃れるところを、モンゴル・南宋の連合軍に挟撃され、みずから首をくくって死んだ[34][35]。後続を託されていた遠縁の呼敦(ホトン)も即位(末帝)からわずか半日でモンゴル軍に殺害され、ここに金は滅亡した。

なお、17世紀になってジュシェン人は愛新覚羅(アイシンギョロ)氏出身のヌルハチが「金」を名乗る王朝を建てたが、これは「後金」と呼ばれて区別される[3]。後金は、1636年にホンタイジによって「」と改称され、大帝国を築いた[3]。これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたって同じ民族が歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例である[3]

略年表

  • 1113年 女真の阿骨打(アクダ)が完顔部の長となる。
  • 1114年 阿骨打が遼に反し、猛安・謀克(ミンガン・ムクン)制を整える。
  • 1115年 女真が金を建国。
  • 1116年 金が遼東地域を領有。
  • 1118年 遼、金に和平を申し出る。
  • 1119年 金、女真文字を作成する。
  • 1122年 金が遼の中京・西京・南京(燕京)を占領。
  • 1125年 金が遼を滅ぼす。
  • 1126年 金軍が大挙して開封を占領。高麗が金に服属する。
  • 1127年 靖康の変。金が北宋を滅ぼす。
  • 1131年 金、陝西省方面を征服して国にあたえる。
  • 1135年 金で熙宗が即位。ボギレ制を廃して三省の制度を制定。
  • 1137年 金が斉国を廃止し、華北の直接統治開始。
  • 1153年 金の海陵王が燕京に遷都して中都とする。
  • 1181年 金、貧窮女真人の救済策をとる。
  • 1207年 宋・金の和約。
  • 1215年 モンゴル軍、金の中都を陥落させる。蒲鮮万奴が金より自立して大真国を建国。
  • 1225年 金・西夏の和議成立。
  • 1227年 モンゴル、金に侵攻。西夏を滅ぼす。
  • 1233年 大真国滅亡。
  • 1234年 モンゴルが金を滅ぼす。

金の年号

  1. 収国1115年 - 1116年
  2. 天輔1117年 - 1123年
  3. 天会(1123年 - 1137年
  4. 天眷1138年 - 1140年
  5. 皇統1141年 - 1149年
  6. 天徳(1149年 - 1153年
  7. 貞元(1153年 - 1156年
  8. 正隆(1156年 - 1161年
  9. 大定(1161年 - 1189年
  10. 明昌1190年 - 1196年
  11. 承安(1196年 - 1200年
  12. 泰和1201年 - 1208年
  13. 大安1209年 - 1211年
  14. 崇慶1212年 - 1213年
  15. 至寧(1213年)
  16. 貞祐(1213年 - 1217年
  17. 興定(1217年 - 1222年
  18. 元光(1222年 - 1223年
  19. 正大1224年 - 1231年
  20. 開興1232年
  21. 天興(1232年 - 1234年

金の皇帝

順に廟号または諡号(廃帝は王号)、女真名、中国名、在位年、続柄を示す。

  1. 太祖(阿骨打=アクダ、完顔旻 1115年 - 1123年)世祖・劾里鉢=ガリベチの次子。
  2. 太宗(呉乞買=ウキマイ、完顔晟 1123年 - 1135年)劾里鉢の四子。太祖の末弟。
  3. 熙宗(合剌=ホラ、完顔亶 1135年 - 1149年)太祖の嫡子繩果=ジェンガ(徽宗/完顔宗峻)の長子。
  4. 海陵煬王(迪古乃=テクナイ、完顔亮 1149年 - 1161年)太祖の庶長子斡本=オベン(完顔宗幹)の次子。
  5. 世宗(烏禄=ウル、完顔雍・褎 1161年 - 1189年)太祖の庶子訛里朶=オリド(睿宗/完顔宗堯)の嫡子。
  6. 章宗(麻達葛=マダガ、完顔璟 1189年 - 1208年)世宗の次子胡土瓦=クトゥハ(顕宗/宣孝太子・完顔允恭)の次子。
  7. 衛紹王(果繩=ガジェン、完顔永済・允済 1208年 - 1213年)世宗の七子。章宗の叔父。
  8. 宣宗(吾睹補=ウトゥプ、完顔珣 1213年 - 1223年)胡土瓦(完顔允恭)の庶長子。章宗の異母兄。
  9. 哀宗(寧甲速=ニンキャス、完顔守緒・守礼 1223年 - 1234年)宣宗の三子。別称:義宗。
  10. 末帝(呼敦=ホトン、完顔承麟 1234年)劾里鉢の末裔。

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
烏古廼
(景祖)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劾里鉢
(世祖)
 
頗剌淑
(粛宗)
 
盈歌
(穆宗)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)康宗0
完顔烏雅束
 
(1)太祖0
完顔阿骨打
 
 
 
 
 
(2)太宗0
完顔呉乞買
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)徳宗0
完顔斡本
 
(追)徽宗0
完顔繩果
 
(追)睿宗0
完顔訛里朶
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4)海陵王0
完顔迪古乃
 
(3)熙宗0
完顔合剌
 
(5)世宗0
完顔烏禄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇太子
完顔光英
 
 
 
 
 
(追)顕宗0
完顔胡土瓦
 
(7)衛紹王0
完顔果繩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(8)宣宗0
完顔吾睹補
 
(6)章宗0
完顔麻達葛
 
梁王
完顔従恪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(10)末帝0
完顔呼敦
 
 
 
 
 
(9)哀宗0
完顔寧甲速
 
 
 
 
 
 
 
 

太字は皇帝、数字は即位順、括弧は追尊された人物の廟号。

政治

勃極烈(ボギレ)制

王朝の創建当初、政治機構は女真式のものがとられた。金には建国以前から勃極烈(ボギレ)と呼ばれる君長層がおり[24]、阿骨打は皇帝に即位する以前、その君長の筆頭として都勃極烈(トボギレ)を称していた[10]。金の建国後、1121年に諳班(あんばん、「大なる」意)、国論忽魯(こつろ、国務総理)、国論阿買(あばい、国務第一)、国論昃(しょく、国務第二)、国論移賚(いらい、国務第三)および迭(てつ、副)という6人のボギレによって運営された[8]。ボギレは、このようにランク分けされていたが、皇帝の兄弟や部族の有力者が任ぜられ、国政の定める議事は諸ボギレ全員の合議制によって金の政治を決定される慣行だったので、皇帝が独裁権をふるう余地は少なかった[8][24]。太宗から熙宗の時代にかけて行政機構の改革が行われ、1134年に中華式の三省(中書省門下省尚書省)が採用されるまで、職掌や数は変動したが、だいたいにおいて数人のボギレが中央の政務を分掌していた[24]。三省採用後も宗室の一族や有力者が政権に大きな影響力を持ち、宰相格の重職は彼らが務めた。熙宗や海陵王はいずれも一族・重臣によって廃位されたが、これは彼らが有力者を無視して強引に皇帝の独裁権をふるおうとしたため、これに反発する形でなされた面がある[29]

猛安(ミンガン)・謀克(ムクン)制

一般の女真人は猛安(ミンガン)と謀克(ムクン)の二段階の組織構造をもった集団に編成された[24]猛安・謀克は民生制度であると同時に軍事制度であり、猛安と謀克の組織を通じて徴募された女真人の武力が金の領土拡大に大きな役割を果たした[24]。太祖アクダは即位前、女真の旧慣にしたがって300戸を1謀克(ムクン)に組織し、それが10集まって1猛安(ミンガン)とした[8][24]。ムクンとは女真語で「族」「郷里」の意味であり、そのリーダーもムクン(族長、里長)と称し、ミンガンは「千」の意味で、そのリーダーもミンガン(千戸長)と称した[8][24]。軍事組織としてこれをみれば、300家族から武器・食糧をみずから携帯した100人の兵がムクン軍として徴兵され、さらにその10倍の組織から千人隊が組織される[24]。これが同時に新しい行政組織となった[8][24]。ここに編入されたジュシェン人たちは、戦闘のないときには、狩猟や牧畜、農耕といった日常的な生業を営んでいる[24]。これは、徴兵の面でも地域支配の上でも効率的な仕組みであった[24]。金が成立すると、各地のジュシェン人たちが金に帰属したが、アクダはその首長を、勢力の大小にしたがいミンガンやムクンに任命した[8]。アクダの統治は万事おおまかであり、劉邦時代のに似ているといわれる[8]。しかし、この組織は単なる氏族集団の寄せ集めではなかったので、ジュシェン人が遼を倒し、さらに華北へ進出する際の基盤となった[24]。金が華北を占領するとジュシェン人は集団的に原住地から引き離されて中国各地に屯田させられ、猛安(ミンガン)は氏族単位から地方単位に再編成された。猛安・謀克制は、華北進出前のジュシェン人、キタン人、渤海人、漢人にも適用されたが、進出後の漢地では都市を把握し、定着農耕民の土地を掌握する観点から中華風の州県制が採用され、猛安・謀克制はもっぱらジュシェン人とキタン人の軍人のみを組織する制度へと変わっていった[24]。世宗から章宗の治世にかけて南宋との戦争が止み平和が長期化すると、ジュシェン人の気風が形骸化し、経済的な没落が進んだ。また、漢人に取り囲まれて居住しているため文化面での漢化が進み、ジュシェン人の組織力はゆるんでいった[27]

複都制

遼の複都制(五京制)を継承、1138年(天眷元年)、会寧府を「上京会寧府」とし、遼の「上京臨潢府」を「北京臨潢府」に改称、北宋の首都であった開封を「汴京開封府」として、七京とした。 1150年(天徳2年)、臨潢府から京号を除く。1153年(天徳5年)会寧府から燕京に遷都、会寧府の京号を除き、「南京析津府」を「中都大興府」に改称、これに伴い、「中京大定府」を「北京大定府」に改称、また、「汴京開封府」を「南京開封府」に改称し、五京とした。1173年(大定13年)に会寧府を再び「上京会寧府」に戻し、以降、滅亡まで六京制であった。

行政区画

金朝の各府

金では19の路に分け、その下に)、その下にを置いた。

文化

ジェシェン人の言語女真語は、ツングース・満洲語のひとつである[36]。12世紀に金が建国され、中国内地北部に進出したのにともない、分布が拡大した[36]。金はモンゴルによって滅ぼされたが、女真語は明代まで引き続き話された[36]。その言語は、満洲語と姉妹語関係にあったというよりは、むしろ方言的関係にあって、広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる[36]

陶磁器の生産については、鈞窯の濃い赤紫色の澱青釉や紫紅釉と呼ばれる釉薬のかけられた瓶子の優品が作られた。河北省曲陽県にあった定窯白磁も引き続き生産され続け、優れたものが多く見られる。北宋後期から金代にかけては型押しで施文した印花装飾がおこなわれた[37]。定窯白磁は華北の磁器生産に大きな影響をあたえ、中原から東北・内蒙古にかけて数多くの模倣を生み出した[37]。また、最大の民窯であった磁州窯で中国陶磁史上初めて上絵付けによる五彩(色絵)が作られたのも金代のことといわれる。磁州窯系では、とりわけ陶枕において絵画的意匠がさかんに取り入れられている[37]

文学では、宋代に発生した雑劇を継承し、元曲の祖形となった「院本」や「諸宮調」と呼ばれる一種の古典劇がつくられた。代表的なものは薫解元の「西廂記諸宮調」などが挙げられる。また人に元好問がいる。

書画では、皇帝である章宗が北宋の徽宗風の作品を残した。

金代の代表的な建築に朔県(現、山西省朔州市)の崇福寺がある。中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定されている。

脚注

注釈

  1. ^ ジュシェンの黄金は、もともとキタン人の官吏や商人によって開発されたものではあった[7]。宋では比較的銀の価値が高かったが西域では金の価値が高かったので、遼では西域との交易には金を充当したと推定される[7]
  2. ^ 生女真諸部を統合したのはアクダの兄、烏雅束(ウヤス)であった[9][10]。ウヤスが死去してのちは、アクダが首長の地位を継承し、節度使の称号を得ていた[9]
  3. ^ ジュシェンの富強の源泉となった物資は、砂金以外ではが考えられる[8]。阿城区の南東約30キロメートル地点に金代とみられる製鉄遺跡が確認され、発掘調査1960年代になされている[8]。沿海州からも金代の製鉄遺跡が見つかっており、そこでは精錬鍛造の技術をともない、工程に応じた地域間分業が成立していたことが判明している[8]
  4. ^ この交渉で暗躍したのが、宦官の童貫であった[12]。童貫は、徽宗の文人趣味に取り入って帝に重用され、軍事権を専断し[12]、方臘の乱鎮圧の任にもあたった[13]。なお、『水滸伝』で有名な宋江は童貫にしたがって方臘征討軍に加わり、いくらかの功績をなした[13]
  5. ^ 耶律淳は、漢人官僚李処温らに推されて皇帝位についた(北遼[15]。当時、耶律淳とともに燕京を守っていた遼の皇族に耶律大石がおり、彼は西走して陰山の天祚帝のもとへ向かったが、天祚帝とも意見があわず、さらに西に向かい、ウイグル族の支援のもと中央アジアに帝国を建国した[16]。これが西遼(カラ・キタイ)である[16]
  6. ^ 燕京を陥落させたアクダに対し、部下が宋にあたえることなくずっと金が占領したらいかがかと進言すると、アクダは「燕京ほか六州はすでに返還を約束した。自分は男子であり、二言はない」と答えたという[15]
  7. ^ 「女真小字」の方は、1138年(天眷元年)に第3代皇帝の熙宗ホラが制定し、1145年皇統5年)に公布したというが、大字小字ともに『金史』に具体的な文字の詳細は記述されていない[17]
  8. ^ 太宗ウキマイの時代も君主と臣下の身分的へだたりは少なく、臣下がキジを料理したからとウキマイを呼ぶと彼も気軽に立ち寄って御馳走を受けに行ったり、君臣一緒になって川遊びをするなど、中華ではみられない気さくで相互信頼に満ちた君臣関係がみられた[19]
  9. ^ 岳飛らの軍人は主戦論を展開し、知識階級もこれに同調した者が多かった[21]。宰相の秦檜らを代表とする講和派は、使者として北方に出向いたり、捕虜にされるなどしてジュシェン金の実力を知悉している現実主義者が多かった[21]
  10. ^ 皇室の妃や公主たちは全員が金の後宮に送られるか、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦にさせられたという[23]
  11. ^ 太宗ウキマイは、1126年、華北を支配するため三省を設けたが、ここで短時間ではあったがボギレ制と三省制度が共存した[19]
  12. ^ 康王はしかし、父も兄も生きている以上、皇帝として即位するわけにはいかないと当初は固辞し、張邦昌のやり方にも批判的であった[26]。張邦昌は、皇后を廃されて尼僧となっていた元祐皇后を皇太后として垂簾聴政をおこない、群臣を集めた[26]。群臣は、こぞって康王に帝位に就くことを要請し、時勢ただならぬことを理解した康王が即位を了承した[26]
  13. ^ 海陵王は、彼の死後、帝位に就いたことも否定され、単に海陵王とのみ記録されている[27]
  14. ^ 海陵王は目的達成のために、自身の母親さえ殺している[29]
  15. ^ 海陵王の北京遷都は、彼が漢人の文明に心酔していたためもあり[29]、また、彼の理想が中国的な専制国家の完成にあったということも理由として掲げられるが[19]、当時の経済事情もこれにあずかっていた[27]。経済的には、物産豊富な江南が華北よりも実力が勝り、当時としては巨大な人口を擁していた[27]。莫大な人口をもち、南宋との経済関係が密接な華北の統治を、中原から遠く離れた会寧で統制するのはもはや困難になっていた[27]
  16. ^ 海陵王は帝位に就く前から熙宗の皇后(悼平皇后)とも仲がよく、女色家として知られていた[29]。「天下統一」の野望も、宋に劉貴妃(劉希)という絶世の美女がいるという評判を側近(宦官)から聞いたためだったともいわれている[29]
  17. ^ 世宗が南宋との講和を急いだ理由は、キタン人がかつての遼王家の治める中央アジアの西遼と連携して行動することを警戒してのことであった[27]
  18. ^ 世宗は土地調査を行い、旧来の官有地を漢人が私有地のように用いている土地、税を負担していない土地、富裕な女真人が不当に所有している広大な土地を没収して貧しい女真人に分与しようとしたが、漢人からは先祖伝来の土地が奪われたと受け止められて、かえって女真人・漢人の間に軋轢を生んだ[33]
  19. ^ 1333年、蒲鮮万奴がオゴデイの子息グユクが率いるモンゴル軍によって捕らえられ、大真国も滅亡した[35]
  20. ^ 理宗に仕えた南宋の高官趙范中国語版は、「かつて北方から興った金と結んで遼を挟撃したことがあったが、それは結局災禍を招いただけであった」と進言したが、弟の趙葵中国語版は、「現国家の兵力は十分ではなく、しばらくモンゴルと和して、国力が充実したら徽宗・欽宗の恥をそそいで中原を回復すべし」と主張し、趙葵の意見が通った[27]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 梅村(2008)pp.415-418
  2. ^ a b 女真』 - コトバンク
  3. ^ a b c d 石橋(2000)pp.64-66
  4. ^ 松村(2006)pp.145-147
  5. ^ 岸本(2008)pp.239-242
  6. ^ a b c d 佐伯(1975)pp.253-254
  7. ^ a b c d e f 佐伯(1975)pp.251-253
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 河内(1989)pp.230-232
  9. ^ a b c d e f 佐伯(1975)pp.254-256
  10. ^ a b c 河内(1989)pp.228-230
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 梅村(2008)pp.418-420
  12. ^ a b 佐伯(1975)pp.261-262
  13. ^ a b 佐伯(1975)pp.263-264
  14. ^ a b c 佐伯(1975)pp.256-257
  15. ^ a b c d 佐伯(1975)pp.257-259
  16. ^ a b 佐伯(1975)pp.277-279
  17. ^ a b 梅村(2008)pp.465-469
  18. ^ 佐伯(1975)pp.260-261
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 河内(1989)pp.232-235
  20. ^ a b c 佐伯(1975)pp.266-268
  21. ^ a b 佐伯(1975)pp.268-270
  22. ^ a b c d 佐伯(1975)pp.271-273
  23. ^ 『靖康稗史箋證・卷3』
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 梅村(2008)pp.420-423
  25. ^ 佐伯(1975)pp.280-281
  26. ^ a b c d e f 佐伯(1975)pp.281-283
  27. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 梅村(2008)pp.423-431
  28. ^ 佐伯(1975)pp.287-288
  29. ^ a b c d e f g h i 佐伯(1975)pp.297-300
  30. ^ a b c d e f g h i 佐伯(1975)pp.300-302
  31. ^ 佐伯(1975)pp.307-310
  32. ^ a b c d e f g h i 佐伯(1975)pp.304-305
  33. ^ 佐伯(1975)pp.302-304
  34. ^ a b c d e f g h i j k 佐伯(1975)pp.315-316
  35. ^ a b c d e f g h 河内(1989)pp.235-237
  36. ^ a b c d 池上(1989)pp.158-159
  37. ^ a b c 池上(1989)pp.158-159

参考書籍

  • 石橋崇雄『大清帝国』講談社〈講談社選書メチエ〉、2000年1月。ISBN 4-06-258174-4 
  • 梅村坦「第2部 中央ユーラシアのエネルギー」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-12-204997-0 
  • 岡田英弘神田信夫、松村潤『紫禁城の栄光』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年5月。ISBN 4-06-159784-1 
    • 松村潤「第7章 大元伝国の璽」『紫禁城の栄光』講談社、2006年。 
  • 岸本美緒宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年9月。ISBN 978-4-12-205054-9 
    • 岸本美緒、宮嶋博史「5章 華夷変態」『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年。 
  • 佐伯富 著「金国の侵入/宋の南渡」、宮崎市定 編『世界の歴史6 宋と元』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。 
  • 長谷部楽爾 編『【カラー版】世界やきもの史』美術出版社、1999年5月。ISBN 4-568-40049-X 
    • 弓場紀知 著「第4章 中国の陶磁II」、長谷部 編『【カラー版】世界やきもの史』美術出版社、1999年。 
  • 三上次男・神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X 
    • 池上二良 著「第1部第III章2 東北アジアの言語分布の変遷」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 
    • 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 

関連項目

外部リンク

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